密教・秘教は、さまざまな事象に付託する

密教は佛教だけにあるのではなく

密教は、仏教の密教だけではなく、さまざまな密教があります。

それは秘教ともいいかえることができ、たとえば女性行者が多い、ヒマラヤ秘教(これは佛教の一派です)などもあります。

令和5年12月にインド・ブッダガヤの密教のフォーラムに参加したとき、ヒマラヤ秘教の尼僧さんたちとも出会いました。語学的問題があるのでとくにお話はしなかったけれども、ヒマラヤはまだ訪れたことはありませんが、僧侶になる前のライター時代から、ヒマラヤの話題にはよく触れていました。

拙著に『冒険者忘れえぬ一言』(NHK出版)という一冊があります。

これは、高山や極地などへでかけて、限界まで挑戦する登山家や冒険者たちにインタビューし、その言葉を抽出してまとめたものです。ヒマラヤの高地にでかける方々も複数いらっしゃいました。

インタビュアー執筆者であるわたしはこのとき一人目の子ども(いまは27歳の娘)の子育て真っ最中で、自分自身は遠くに旅ができなかったわけですが、ご縁あった冒険者の方々のお話を聞いて、厳しい大自然に思いを馳せたものでした。

人生の前半では、わたしは小さな場所にとどまり、あまり得意でない家事育児に勤しむことが魂の課題だったわけです。それでも社会で仕事をさせていただくこともでき、そんなとき、冒険者たちの言葉がリンクして支えになり、いつか行けるかわからないけれど、ご縁があったらいけるかも…

というような気持ちをもって都会での日々を生きていたことを思い出します。

密教は逆説であり、さらに逆をつくることもできると私は気づいています。

小さな圏内で生きることで大きな夢を見ることもある。

そのとき見た夢が人生の後半で適っていくこともある。

しかしそれは密教的にいえばどちらも同じことなのです。

マイナス、プラスと決めているのは自分自身の価値判断。それは、生まれたときからもっているものではなく、生きる過程でさまざまな経験やまわりの人々の影響をうけて形成してきたもの。

もちろんそれも自分自身なのですが、いうならそれはごく表層の一面です。

多くの人は自分に都合のよいことを信じる癖があります。競争社会ではほかの人やものを蹴落としてのし上がっていくために、必要なことを信じさせられてきたわけです。

しかし人生のステージはかわっていくため、ひとつの信念がいつまでも当てはまっていくとは限りません。だから柔軟さを養っていない人はステージが変わると折れやすくなってしまいます。

わかりやすくいえばですが、これらのことを総合して、密教は内部を攪拌・変革する宗教・思想であるということができます。

真の宗教は特定の人たちだけが利益をむさぼるものとは違うわけです。

なぜならバランスしてこそ宗教思想だから。

冒険者たちの手法

たくさんのマイナスをプラスにすることもできれば、困難を選び取り、それによって得られるものをパワーにしてめざす地点まで突き進む、こういった手法は、冒険者の方々から学んだことでもあるのかもしれません。それは死と生すれすれの世界で得られた生きた智慧であったりします。

その本を書いてから十数年後、わたしは出家し密教行者として生きることになるのですが、45歳で出家し48歳で僧侶になるのは一般的な考えかたからみると「遅い」かもしれません。実際にそのようにいう人もいました。しかし人生の各部署で、修行に似たことをしてきたという気持ちもあります。

もちろんなりわいとしての祈祷僧のしごとは、精神的だけでなく肉体的にもきついので、体力的に考えても、もう10年はやく僧侶になっていたら・・・と思うこともよくあります。

でもほんとうは、ときは定められ、すべては決められているということもわかっています。密教はすべてのことを集約でき、人生の木をさらに大きなものに育てることができます。

その際には冒頭で書いた技術が生きてきます。

逆説は密教の門

いやなことや不快なことこそが、未来をつくるということです。

わたしはウェルネスを推進する尼僧という見方も対外的にされ始めているようですが、ウェルネス(心身の健康)はぱっとみてすぐには認識できないものかもしれません。

QOLなどもそうです。これらは総合的な見方で判定されるものです。

総合的な見方のひとつは顕教的見方と密教的見方があります。

表と裏、表面と奥面、現世とあの世とか、いろいろと言い方はあるでしょう。

これまでの男性原理中心の経済社会では、ともすれば「今だけ自分だけ金だけ」というような刹那的なタームに捕らえられてしまい、そこから動けなくなってしまっても、自己責任に帰せられることが当たり前でした。

宗教的にいえば、せっかくのチャンスがあっても、さまざまな縛りの中で魂を動けなくしてしまうのは、自分自身の低い波動の欲や業、カルマが遮ってしまうからです。そうなったとき、「ご神仏の意思である」とか「信心がたりない」とかいうのは、表の見方です。密教的見方では、そこを起点として新たなものを生み出す契機にしているという示唆がこめられているとみることもできます。

宗教とは宗となる教えですので、前向きなものであることがたいせつです。

目に見える既存の部分で前向きであると、新しいことへは後ろ向きになります。

逆に密教的に考えていけば、どんなときでも人生の木の枝は伸びていくと考えることができます。ようは選択する技術であもあり、いままでチョコレートケーキを選んできたのであればこんかいはいちごムースを選んでみることの繰り返し、いままで選ばなかった道をいってみることで、別な価値を生み出すことができるわけです。

魂は、その誓願を実現するまで何度も課題を与え続けるものだからです。その状況を呼び込んでいくのです。しかし、どれもこれも、なにも悪いことではありません。

魂の誓願

魂は生まれてくるとき、該当のからだに入るときに、その人生でなにをするかということを決めてきています。だからこそすべての人間は貴いのです。

お役目というと大仰にすぎますが、生きるということはそういうことで、決めてきた課題を修し終われば次に行くことになります。

人生は魂の学校です。自分自身の課題を引き受けること、そうして真摯に挑むことで開けてくるのですが、いかんせん、自分自身の課題を見つけることだけでも通常はたいへんです。

進めていくためのコツもありますので、迷っている人はどうぞご相談にいらしてください。迷っているときに大切なことは信じて待つということでもあります。合掌

※写真はタイ国・ワットリヤップにて、お寺の方から写していただいたものです。

後半の人生では日本の尼僧(祈祷僧)の立場で、できる限り、いろいろな国を訪れたいと考えています。