代表者が、住職をつとめている高野山麓の寺院の紹介です。

横笛の会の会員さまが施主となられるご供養は、

三石不動尊にて執り行うこともできます。

宗教法人 三石不動尊 近現代の歴史

三石不動尊は、令和5年7月に新たに法人となった寺院です。

高野山真言宗に所属しています。

縁起は弘法大師21歳の794年にさかのぼります。

出家前の空海が、御瀧でご修行をなさいました。

中世や江戸時代にも多くの行者を集め、観心寺文書には

河内国とのつながりについて書かれています。

しかし、衰退と復興を繰り返す命運により、明治2年神仏分離の折には

すべて焼失、消失してしまいました。

ただし、御瀧はずっと変わらずそこに流れていました。

昭和7年~10年に、御瀧からお不動さまの石像が発掘され、

伊都郡山田・吉原の村の人々はこれを御瀧におまつりすることにしました。

丹生家出身の米本全燿が不動講の代表者となって現在の拝殿を建立しました。

拝殿は、当時、高野山大師教会の末寺として地元だけでなく広く信者を集めました。

全燿は丹生家出身で、霊能的であり、病気平癒等のご祈祷を行いました。

寺院内には輪橋がかかっていましたが、全燿が遷化するとほぼ同時に大雨により流されてしまいました。

法力ある僧侶と環境が強い力で繋がることを示すエピソードです。

令和の復興

令和2年にこのお寺を預かった佐藤妙泉は、かつて伝統的にあった、神仏習合の

祈祷寺の復興をめざしました。

つまり、全燿の時代にもどしていくということを一つの方向性に掲げました。

日々の修法を続けることにより集まってこられる方々とともに

少しずつ決まってきた方向性です。

そのようにして、病気平癒、健康祈願、学業成就、人間関係のお悩み、葬送のお悩み、パワーアップ、

通過儀礼、各種安全祈願など信者さまのご希望にあわせた、さまざまなご祈祷を行うようになりました。

また、有縁のお方の葬儀一般をはじめとしたご供養も行っております。生前ご予約もできます。

ご事情を鑑みて、永代ご供養もお受けしております。

また5月3日には、毎年テーマを決めて、慰霊祭を執り行っております。

ご祈祷は基本的に予約制で、ご希望の日時を申告いただき、当日来寺いただくという流れになります。遠方の方は遠隔ご祈祷も対応しております。

令和5年には新生宗教法人として、さらに気休めではない、祈祷寺院としての確立を目指していきます。祖師・弘法大師はさまざまなご祈祷を行われたのです。その祖師が唐からおもちかえりになられた経典を用いて、ご祈祷を行っております。

ご祈祷では、もっとも実効性のある尊格におりてきていただき、お願いをいたします。

お電話かメールにてお問合せください。

myosen.spring@gmail.com

090-8110-3858

三石不動尊は、神仏習合の祈祷寺です

中央構造線上に位置する、伝統的な祈祷寺です。

ご本尊は不動明王。脇侍に聖観音、弘法大師。

また、令和の復興とともに、大弁才天女、地蔵菩薩が新しくおわします。

少なくとも794年からの霊域であり、弘法大師はもちろん、それ以前から役行者や行基菩薩もご修行された地域です。

三石山中腹である、上に御瀧大明神、下に弘法大師堂が位置し、本格的な密教祈祷のシステムが残っています。

明治2年には神仏分離で荒廃しましたが、昭和7~10年には高野山大師教会の末寺として復興、平成31年にはふたたび廃寺となりましたが、翌令和2年復興されました。廃寺となってもすぐに復興を繰り返す、ふしぎなパワースポットです。秘仏は緑ターラ尊です。

和歌山県橋本市山田812

弘法大師の逡巡

出世のための学問を捨て、親や親戚の期侍に応えられないという自覚の中、 おおいなる存在に導かれるようにして自分さがしの旅に出た若き空海。五里霧中の徒歩移動中、ふと立ち寄った、
ここ三ツ石の地で、密教者として生さるきっかけをつかみます。

延暦13年 (794年)21歳の弘法大師が草庵を結び、修行をした場所が、ここ「手水瀧」 です。日野西真定の調査文書のなかには、山田の秘水の瀧と表記されています。

当寺の御神体としてお祀りされるこの瀧で、弘法大師は不動明王と出逢われたと伝わります。
それから3年後、空海の初めての小説 『三教指帰』 (『聾瞽指帰』)が脱稿されることになりました。この、仏門へ入門する決意の書というべき処女作完成後しばらくの年月は、 空海伝において 「空白の6年間」として謎に満ちた時間とされます。
三石不動尊 大師堂には、弘法大師の人間的魅力や想いが今もたくさん残されています。どうぞおまいりいただき、新しいー歩を踏み出す勇気をいただいてくたさい。