酷暑に負けず元気に拝む

両極、活発な動きです

夏は忙しくて当たり前ですが、急ピッチで進んでいます。

ゆかたまつり7月28日の縁日祈願法要のあと、すこぶる調子がよくなりまして、

30-31日の高野山リトリート(初級)では都会の方々が高野山に来てくださり活動を行いました。

8月は1ー2日お盆の供養のはじまりにおいても、酷暑にも負けず元気です。

御霊さんも続々、集まってきていますよ。

もうじき7回忌を迎える方のお迎えを両日、それぞれさせていただきお墓も拝みました。

いったん自宅マンションに戻り、休養して、ふたたび3-4日は信者さんのおまいり対応や

新仏さまのご自宅に伺っての仏迎えが予定されています。

体調をととのえながら、よいコンディションを保ち、お役目をはたしていきます。

6日~お施餓鬼法要の15日までは、仏迎えの法要をご家族ごとに個別で行います。

高野山での横笛サロンは20日の十一面観音様ご縁日までお休みになります。

知り合いの方から「妙泉さんはプールとかいかないの?」と聞かれましたので

「若いころは泳ぐのが得意で海や川、プールもよく行っていましたが、最近はめったに行きません」と

答えました。「海で尼さんと出会ったら信者さん驚くでしょうね」と笑っておられます。

水が大好きですので、毎月の御瀧での行水は、夏は月に3回くらい行うこともあります。

お盆のおまいりを前に、体調がよくなってよかったですが(じつは去年もそうでした)

わたしは自分の中に自分以外のなにものか貴い存在が入り込んで動かされているなあと最近はつとに

思うのです。それは28日夜、総代さんたちとゆかたまつりの打ち上げを夜にしていたときに、ほんとうに「ふっ」と、

素の自分に戻っているのがわかったのです。逆説的に「ふだんは、素の自分じゃないんだな」ということを知るのです。

神さまがお出ましになりはやくあげてくださいます

いや、じつは7月の初旬に祓串と御幣(ご神体)を本堂に入れたことで、大きな化学反応というか変化が生じました。ご本尊の不動明王立像の前に御幣を安置するということは、神の御霊を安置したということです。つまり不動明王が仏としての存在から神としての存在に変化したということなのです。

じつは、お供えも日常的には、水、塩、米、酒というものに変化しているんです。

それに果物と高野槙は加えていますが、仏さんのお供えとはだいぶん違っています。

わたしは御香についての講座を開いているくらい御香が好きなのに、三石での神様の顕現のあとには

たくさんの御香を使わなくなりました。

仏さまだけのときより、神仏がおでましになられた今のほうが、祈祷にしても供養にしても

御瀧へ上げるものがずいぶんスピード感が増していることがわかります。

三石不動尊は神域ですので、それは前から感じていたことなのですが、御幣を安置することで、それが顕著にあらわに、理解できるようになってきたのです。

そして御幣そのものが住職である私自身を祓ってくれるので、わたしは楽になったということなのでしょう。御幣をつくってくださったのは高野山五の室在住の松田さんです。松田さんとは9年来のお付き合いですが、最近はほんとうに久しぶりにお会いして、そのとき立ち話で御幣などをつくろうという話にすぐなったので、ほんとうに摩訶不思議。

昭和初期のご本尊

昭和8年に安置された三石不動尊のご本尊をほられた、仏師の田坂柏雲師は、高村光雲師の弟子にあたる方で、田坂師は、おもに神像をつくる造形作家さんでした。

そのときの住職と田坂師がどのような仏像にするかを話し合っていた往復書簡が三石不動尊に残っています。

神像をつくっていた方に依頼したということは、三石の像も神像のエッセンスがあるということがわかります。御瀧は神様であるなら、先師が御瀧で感得したであろうこの3尊もまた、神の側面が大きかったといわざるをえません。

もともとの神域に、弘法大師堂ができたのが江戸時代だったのでしょう。

紀伊続風土記には、「不動堂廃大師堂」と記述があります。

この場合の不動堂とは、神的な側面のお不動さまだったのでしょう。

このあたりは、まだまだ考察の余地があり、拝みながら、文献調査も含めて

仏の尊格である神像の拝みかたについて研究していきます。