論文に取り組む日々~初日~
教相にとりくむ、まずはメモづくり
ほんじつは図書館にこもってじっくりと論文のためのメモづくりをはじめることができました。わからないことがあれば、以前学長をされていた師匠にメールでお聞きすれば、図書館内のどこにどんな本があるか頭の中につまっているような師匠なので、ヒントを教えてくださいます。きょうは師匠にメールで質問を送っておいて、返事がくるまでに、自分自身で探して読んでいた本が、あとから返信が来た師匠のアドバイスと同じ本だったので、ちょっとうれしかったです。
机のうえを本だらけにして、パソコンの画面をひらいてメモをとりながら、資料をよみこんでいく作業です。そうしていると、今回の論点はこうしようとか、構成はこの形でとか浮かんできます。たのしい作業です。あとでまとめるときにわかりやすいように、太字と細字にわけたりしながらメモをつくっていきます。まだまだかかりそうですが、今回は3日間、26日まで続けるつもりです。
托鉢について思うこと
ここから論文とは違う話。
托鉢とは、禅定と同じだなあと気づいた話です。
先日、托鉢が終わった後、(伝法灌頂の)伝授阿闍梨様が「きょうはどうでしたか」と二回くらいおっしゃったのですが、あまり気の利いた受け答えができずにいました。「がんばりました」とかなんとか言ったような。暑さは思ったほどでもなかったけど、やはり夏場はきついので、身体が疲れていて、うまく答えられないんです。これは、托鉢中に私のところにいらしてお声かけいただく信者さんはわかっておられると思います。もう意識が別なところにいってしまって、すぐに質問にも答えられない感じですよね。
托鉢と禅定
で、遅ればせながら今日考えました。
6時間くらい読経を続けていると光に包まれるような場面もあったりします。それで、じっと立っているだけだと足が痛んでくるので、足を歩くように動かしたりもします。
実際には門の前に立っていますが、歩きながら托鉢をしているイメージです。
それで托鉢とは、ひとつのことに集中してし続けるということにおいて、禅定と同じだなあと思ったわけです。だから、何時間も続けていると意識が別段階にいってしまうことがあるのです。禅定もそうです。いきなりトンネルに入ったり、ずっとむこうの光の方向に進んだりもします。
仏道とは、戒律→禅定→智慧
基本の禅定にはいるために、まもるべき戒律があります。
よりよき禅定にはいると、智慧が得られます。
仏陀は、修行によって智慧を得られ、それは大学の学問の基本となっています。
世界初の大学はナーランダー大学です。世界中から仏教を学ぶ人たちを集めた大学。
仏道はなんのためにおこなうのか。いや、それは志した時点でなんのためというのはなく
たえまないエンライトメントを求めて精進するだけなのでしょうが
そんななか、托鉢修行も集中という意味で夏はあついし冬はさむいなか、自分自身をおいこんで
行う利他行になります。
これからもがんばって続けていくつもりです。利他行ではありますが、自分自身の仏道の進捗のためでもあります。