自分自身の仕合わせとは?
4月14日です
昨夜はあまり眠れずに、朝方、すこしうとうととしましたら、寝坊してしまいました。
めんぼくない。
さて、現在、慰霊中にて、考えることはふだんとは違うことであったりします。
おりてきたキーワードは「自分自身のしあわせをたいせつに考えるっていうけど、
それはどんなことなのだろう」と来、昨日は、希代の女性霊能者である大森智辯尊女の
ご遺言(ごゆいごう)のなかで、「人さまのためだけに生きてきた人生では
一日たりとて安穏と過ごした日はなかった」という言葉がせまってきて
わたしも及ばずながら歴史的にそのような場所で取り組んでいる「神降ろし」の実際は
そういうものだなあと思いいたっていたのですが、
これは軍曹としての辻政信氏の人生をあらわす際にもあてはまることがあるなと感じています。
戦地から戦地へ転戦する日々。
一寸先の自分の命さえ保証されない戦争を指揮するなかで、現在、辻さんは当時の自分自身が率いた名もなく兵隊さんを助けたいと思っています。
大戦後の昭和20年以来、わたしたちは、その反省から、戦勝国、欧米の価値観を受け入れ、あらたな歴史を刻んできました。子どもたちの教科書は刷新されるまで教師が指導して黒塗りの教科書になり、それまでの自分たちの暮らしが何であったのかと空虚感におしつぶされそうになる人も多かったと思います。
それまで戦争に勝つことを目標にやってきたはずが、そして戦線では「勝ち目はない」ことがわかっていたにもかかわらず、止めることができずに、そうわかってからも多くの命が失われていました。
このずれにより、痛みや軋みが多く生まれ、いまに継がれてきていると感じることがあります。
「自分自身のしあわせを」という言説に接するたびに「それは自分自身の心の平穏を選ぶこと」といいかえています。
「自分自身のしあわせ」というと、個人主義の中で、各人が自我のもとで刹那的に心地よいことを選択していくことと訳される向きもあるのではないでしょうか。でも、人間はやすきに流されがちです。やすきに流れたところで、真のしあわせはあるでしょうか。歴史が証明していますね。
戦後、「戦争はいけない」といって「やすきに流され」てきた結果がいまの日本です。
つまり「戦争をしているとき」は国民一丸となって気持ちをひとつにして勝つことをめざすことに終始していたから、終戦後はその反対をとって「自由という名の個人主義」へと進んでいったのです。
よしあしではありませんが、敗戦をさかいに、真逆にベクトルが生まれ出て、わたしたちの国の精神は分断がはじまりました。(分断の最初は明治維新かもしれません)
「信頼」という課題
わたしはこの三次元に生きる人間のしあわせを言葉にするなら、ひとつは「信頼」であるのかなと思っています。
「信用」と「信頼」が違うというアイデアがあります。
信用金庫という言葉にもあるように、「信用」はビジネスライクな場面でより適当です。
たいして「信頼」は信じて頼ることなので、これは人間の心の領分であることが多い。
そして、人間にしかできないことであるかもしれません。
信頼関係を構築するということは「おたがいさま」の精神です。
人間同士、ともに生きている、共感力、たがいに下支えしあって生きている生きとし生けるもの、
森羅万象。わたしたちは三角錐形の中で生かされています。
それに気づくための第一歩が「信頼」であると思います。
そんな中で、自分のことよりも相手のことを考えて生きる、という局面も生まれます。
神降ろしの現場では、神さまへの信頼が究極に達していますので
その関係性が凝縮して迫ってくることもあります。
尊女のおことばは、それをあらわしているように聞こえます。