眼差しの暴利

眼差しの暴力と言うことを考えて欲しい。世間的に評価されるものや、きらびやかに目に見えるもの、多くの人が良いとするもの。権威的なものや権力などのわかりやすいものを崇め奉る事はある意味簡単なことではないでしょうか?

長い間取るに足らないもの、もっと言えば、蔑まれるべきもの価値がないものと言うふうに見られてきたものは、形は多くの人にはそのように見えてきてしまいます。

しかし、これらの内実には大衆の幻影が折り重なって層を作り、本質を見えにくくしていることも明らかです。逆に崇め奉られているものは、表面的な華やかさとは、逆に、その内実には多くの矛盾や光を集めたすぐ側に闇が見え隠れするように犠牲が近くに見えます。

このようにして考えてみると、私たちの物の見方に少し考慮の余地が生まれるかもしれません。

汚いものに蓋をすること、そしてそれをまっすぐに見ようとしないこと、もっと言えば、自分に都合の悪いことに無視しようとすること、そのようなことを続けていると、今のような社会になってしまうのです。どの階層においても救われる事はありません。

この虚栄が勝ちすぎて本質を失った人間社会。いや、歴史をかえりみても、それが人間なのかもしれないと思うこともあります。つまりこの世は修羅でできていると言うことになるとすれば、私たちは他生を夢見、まずはそこに楽園を作ると言うことをしてきたのでしょう。自らの楽園を形作ることができたとしたら、この世は今より良いものになるはずです。蓮の花と汚濁は直線で結ばれていて、それが茎です。