気づきのいのり
ふと思うのは
今日はなんだかふと「苦しいこと辛いこと不遇と思えること理不尽に思えること」が来るということは、よいことなのだなあと、わけもなく思いました。
解説することが容易ではなく、降ってきたのかもわからない言葉です。
ふだんあの世のしごとをさせてもらっていると、あの世とこの世はだいたい正反対なことが多いことに気づきます。また、あの世のほうがちょっと高いところにありますので、うまくいけばこの世の人たちは守ってもらえるわけです。
そんなかたちなので、「悩みがあることはよいことなのだな」「いま生きている証拠なのだな」だって考えてみてください。100%満足の生き方暮らしがあったとして、そうするともう成長することレベルアップすることがなくなってしまいますね。(だから生きているかぎり、そんな地点はないと思ったほうがいいですね)
試練があるのは生きてる証拠
人生は試練があって成長する、成長したら喜びが待つ、山々を上ってはくだり、峰々とであっていくように、そんなものではないでしょうか。
だから試練が来たら、喜べるかどうか、喜びはなくても、当たり前のように受け取りかみしめることができるかどうか。
大きなものごとの前には必ずといっていいほど試練があります。邪魔をしてくる存在もあります。
「あきらめないのか」「それでも前へすすむのか」そんなふうに問うてくる存在。
驚いてひるんで立ち止まっても、壁を破るように突破する一歩を踏み出せば、また新しい道が開けてくるはずです。人生のなかでどなたでもこのような経験をしていくと思いますが、仏道ではこのサイクルが短く深いです。
説明のしかたを変えてみましょう。
変化を受け入れあわよくばそれ自体をたのしんでいける心
人間は基本的に変化をこのまない生き物だといわれます。
心地の良い状態がつくれたら、そのままでいたいと思えるのは当然ですが、
長くなれしたしんだ状態が続いたとき、ひとはそこから離れることにまずは抵抗するというものです。
それもなお、幻想ではあるのでしょうが、
一緒に生活したり、なにかを一緒になしとげようとするときには、「幻想としての共有知」は
必要でした。それが紐帯をつくり、ものごとの成就を可能にしたのです。
しかし、共有知がそもそも幻想であることに気づきはじめたいま、声高に申されるところの「分断の時代」を傷を負いながらくぐりぬけることによって、人類は新しい人類の島にたどりつけるのかもしれません。
分断を経験してかつ、のりこえる、もうひとつのキーワードは
「あなたの愛をあきらめてはいけません」。
「いのりはあたらしいものを生み出す源泉です」。