御瀧での定例水行のこと(令和6年10月)
10月19日、三石不動瀧にて定例水行を行いました。
予定では水行をするつもりではなかったのですが、みなさまの健康息災を祝詞で祈祷していたら「御瀧へまいれ」ということだったのです。
40分の祝詞の祈祷のあと、さっそく準備をして御瀧へ。
周辺開発との関係があるのかないのか、上部から落ちてくる土砂がすこしまた増えていて、すこし悲しい気持ちは否めないですが、そしてこの日もジャリがたくさんあって、身体が痛いと感じるくらいなのでしたが、行は行です。
痛いという気持ちに気がいってしまうと行が浅くなってしまいますので、これからはすのこをもってきて行ってもいいなと思えました。
法務
お約束の信者さまがいらっしゃって、彼は、一度お寺にきて、わたしがいないので、「御瀧行だな」と推測なさったということなのですが、一度まちにおりられて、ふたたび来られていろいろ話をしました。
三石不動に前の前の住職の時代から続く「身代わり不動御まもり」があり、彼はそれを交換してほしいということだったので、朝から拝んでいましたものをお渡ししました。
彼は気功をする人なので、そんな話をしたり、人間性についてだったり、いろいろなことを話されました。わたしはそのあと11月の御護摩の団体さんのためのお札を一枚一枚書きました。
表がきができた後、本堂に戻って内護摩秘観を一座修しました。きょうはすべての信者さまの健康息災を祈る日です。すこし御瀧行のつかれが残っているでしょうか。
ぐるぐるとかきまわされているような感じがいたしました。
修法が終わってから護摩札の裏面をしたためました。
日航機123便
ところで信者さまのなかで、ご親戚が昭和60年の日航機123便に搭乗されていた方があります。三石不動でも2度くらい慰霊祭や施餓鬼のときにご供養をさせていただいていました。
昭和60年にはわたしは中学二年生で部活に燃えているスポーツ少女でしたが、夏休みに祖母の家に行っていたとき墜落が起こり、たいへん揺れ動かされ、報道を集中してみて、複数の新聞やテレビのニュースなどをソースとして、夏休みの課題作文を書きました。520人の方々が一気にいなくなってしまうということが悲しいということはもちろん、なにかとてつもなくとらえきれないものを感じていたように記憶しています。
ほんじつの御瀧行では、昭和60年に戻ってしまいました。これはここでご供養慰霊をさせていただいていたからだと思います。
日航機123墜落には、謎や不可思議な点が多々あります。犠牲者の叫びがいまにも残っているからこそ、風化せずこのようにありありと出てくるのでしょうか。
余韻は夜まで続き、ネットで今一度、日航機123について調べてみました。
やはり不可思議な点があるし、また、墜落現場の御巣鷹山は、それ以前は高天原山と呼ばれていたということに大きな衝撃をうけました。
神々は、なんらか人間に伝えてくださっていた・・・そう考えるとすると35年前の大きな転換期に、わたしたちは道を違えてしまったということができないか。
人命をはてしなく軽視する現代の風潮は、もはや39年前から始まっていたのかもしれない。
いま、令和6年10月。そんなとき、わたしには何ができるのか。
供養や慰霊はもちろんします。でもなにか焦燥感が襲ってきます。どんな焦燥感??
だからいままた、道を違えることを繰り返してはならないと神々が伝えてくださっていることを、どうにかお伝えしていけたらという、そんな焦燥感です。
人類はもう、人間性とかそのような特質は捨てて、新しい別な人類に変わっていくところなのだろうか。もう、仏道など古くて欲望を抑えることなどナンセンスで、時代に合わせて損をしないように生きる人が多くなり、いやそのような生き方こそ主流になっているのだろうか。