令和6年お盆総括

三石不動尊では、8月15日御施餓鬼法会、また16-17日はお送りがあり、ほんじつ18日は観音さまのご縁日で、ようやくゆったりとした朝を迎えています。

横笛の会では、20日十一面観音さまのご縁日、さらに31日~9月1日には会員さまの夏のリトリートが予定されています。会員さまはふだんより、横笛の会の教えに触れていただいているため、はじめての方であっても中級のプログラムになります。

令和6年のお盆月はほんとうにきつかったです。

8月1日から信者さまのおまいりや法要を厳修させていただきまして、わたしは有縁の御霊迎えに集中していました。とちゅう一日の中休みがありましたが、その日は寝込んでしまいました。日本列島は全体的に、どんな理由なのでか、御霊迎えに強いエネルギーが必要だったように思われます。それは、御霊の残念のせいなのか、全体的な社会の雲行きのせいなのか、おそらく両方であるかと思いますが、安穏としてはいられない様相がたちこめていました。雷雨もたびたびありました。

13日には「日航機123便犠牲者の供養も」さらに「実験動物の供養も」とお声があり、後からお申込みになられた信者さまのと一緒に経木を追加でおつくりしました。

つとめて明るく居心地のいい雰囲気をつくって迎えた15日には、三石不動尊にもたくさんの参拝の方々(50-60人)がお見えになり、みなさんでご一緒にお祈りして、御霊さまをお送りすることができ、心の底からほっといたしました。一年に一度だけおまいりの方もおられますが、みなさんお喜びいただき、終わってからメッセージをたくさんいただきました。

8月15日までがそんな感じだったので、16日はお休みさせていただこうと思っていたら、15日の午後にお葬儀が生じてきました。16-17日はその方のためにおあけすることとなりました。

お葬儀をさせていただいて思うのは、亡くなった方は、導師を担当するわたしの身体を使って、最初の関門を通られているなあということ。つまり、亡くなったら火葬までの間のさまざまな儀式により、身体と魂が分かつことが大切になります。具体的には、お通夜までは身体と魂は一緒で、お葬儀の引導作法のときにはっきりと分かれる形になります。お葬儀の約50分の間に、そのいつに分かつかというのは、それぞれの方によって違いますが、分かたれたときには、私にはわかることが多いです。具体的にビジョンとしてあらわれてくださる方があるほか、ビリビリとした電気刺激となって示されることが多いです。そして、わたしの身体が急に軽くなる形です。

そのとき、ご遺族さまにお伝えする言葉など何かあるかお聞きします。お伝えされる場合もあれば、ひたすら、「お経をよんで、もっとよんで」とおねだりされることも多いです。その方が一生を一緒に追体験することもあります。

葬儀場から火葬場に向かうときに分かたれる場合もあります。いずれにしても御霊が分かとうとする力に心を一緒にして加勢してさしあげることが大切です。引導作法は儀礼ではありますが、儀礼だけでは分かつことはできません。熱が必要なのです。

慰霊祭ではたくさんの御霊を一気にお上げするすることになります。ほかの僧侶や行者に助法していただくことも多いです。

お葬儀ではただ一人の人のために祈ります。複数の僧侶が拝むこともありますが、一人で拝むことも多いです。

令和6年の経緯をみてみますと、戦没者やさまざまな慰霊を行ってきたために、集団的にお上げるすることが通常となっておりました。それは、差別なく、不特定多数の方々に対して思いをいたすことでもあります。

お葬儀では一人の方がたったいま、旅立たれます。

お葬儀のあとには、慰霊の経験をふまえた言葉が自然に出て、ご遺族さまがたをお慰めすることがすこしはできたようです。

わたしは高野山に来た2018年高野山大学大学院に在籍していたときには、研究職に就くことを目標にしていたこともありました。仏さまのお導きで事相の道へ入り、いまのように祈祷僧としておしごとをさせていただいています。

ですが、時間のあるときには研究も自分自身で続けています。8月14日に、集中的に弘法大師について研究もしなければならない状況が生まれました。しばらくは文献調査にも時間を割いていくことと思います。三石不動尊は弘法大師のお寺ですから、長い目でみたときに、いま、弘法大師の研究を集中して行っていくのも必然なのでしょう。

横笛サロンは変わらず開室していますし、三石不動尊の行事やご祈祷も変わらず行っていきますが、すこし待っていただくこともあろうかと思います。緊急の場合にも今までどおり対応していきます。

高野山は朝夕、秋風が吹いてきました。

あんなに暑かった夏も知らず終わりを告げていきます。

時間の流れは無慈悲であると同時に、振り返るときには慈悲深いものです。

ことしの夏のたいへんさを乗り切ったこの身体をいたわり、自分自身の自然存在である身体にも感謝して、さて、次のステップに進もうかと思います。

乗り切れたことが仕合わせで僥倖です。御施餓鬼法要が無事おわったとき、涙があふれました。無事終えることができたことのよろこびです。

仏道とは並大抵のことではないことがわかります。