かくかくしかじか、雪も降る

令和6年12月に入ってからの法務

みなさんこんにちは。

高野山は12月8日、初積雪となりました。

12月8日はお釈迦さまの定道会ですね。

わたしは12月5日に、これから年末にかけて行う慰霊の開闢を行いました。

12月7日~8日はいろいろとご供養の案件がつまっていましたが、

さらに急な法務(引導)も入ってきまして、またかなりよゆうのないスケジュールで

数日間を進みました。

6日は山内での参拝同行のあと、夕方には準備して下山し、引導作法のための書き物を行いました。あまり眠れませんでしたが、楽しみの読書などして空き時間をすごしました。

週末は病気平癒や悩み相談などの急ぎご祈祷案件も複数ありましたので、昨日8日の夜は本当に疲れていました。

9日の朝は朝食を食べていたら歯がかけてしまいました。また歯医者さんに行かなきゃいけません。

慰霊の開始です

ところでいよいよ11日~12日は、じゅんびにも時間をかけていた慰霊の第一回です。

廣峯神社は牛頭天皇のお社であり、いま大きな動きがあります。そこにおまいりをして北上していきます。だいたいのめぼしはつけていても、慰霊旅の途中の感得によって進んでいくことになります。

よばれて慰霊をするということはこういうことで、信頼できる行者さんたちとも必要に応じて意見交換しながら進めていきます。

洞察力やある種の霊能力を健康的に働かせるためには、体調をととのえることも大切です。

急に寒波がきて、それと同時にいろんなものもおりてきます。

慣れてはおりますが、8日の一周忌法要では、かなり神秘体験がありました。

法要中、施主さんご一家以外の人がたくさんきていました。

がやがやという声は法要ではわたしはよく聞くのですが、このときもはっきりした声がありました。それでもご参列のみなさんは聞こえなかったということでしたが、終了後のお茶のとき「だれだれが来ていたのかもなあ」と談笑されていました。

ふしぎなことはふしぎなこととして、なにかがきこえるとかみえるとかいうのは、自分自身の感覚でありそれがどこの段階のなにをみているかということは、たいていの場合は、当人が自覚していることは少ないです。

その事象現象にとらわれてしまい、道を見失ってしまう人がよくいらっしゃいます。

自分の感覚に注視するのではなく、多くの現代人が失ってしまった五感以上の感得力について思いをはせ、かつての人類にはあったはずのその力が、どこに隠れてしまったのかについて考察するほうがよいと思います。なくなってしまうことはないので、発掘すればあなたのなかにもあるし、人類全体の力としてもあります。

積雪するとかなりな波長の変動が起こります。

どうぞみなさまにおかれても体調にお気をつけくださいね。

鉱脈を拝むことについて

鉱脈を拝み、そこの狭間で苦しみ成仏できない魂について、思いをはせるというしごと

わたしは兵庫県で育ちましたが、こどものころから「生野銀山」というキーワードをなにか

どこかからか耳にしていました。

このたび、ある依頼案件により考察をすすめていますと突如ふたたび

「生野銀山」が浮かび上がってきたのでした。

実際に、この慰霊を手掛けるようになるかどうかは、ご縁によります。

相談をしているときに「息苦しくなる感覚」これが両者にあったのです。

日本の歴史の裏側で声なき声、さけびをあげ続けておられる「存在」を

無視することなく、こころからの慰霊をすることで、変化するものがあります。

させまいとする勢力も多々あります。これは現世とあの世の両方であります。

開闢までも厳しいです。

そこは乗り越えましたので、あとは拝みきることを目指します。

悠長なことは言ってられない気持ちがとてもします。

この二日間である程度のところまで解決をめざしたい。