お弟子さんができた日

去る令和6年2月25日に、わたしが住職をつとめる三石不動尊で、お弟子さん一期生の結縁式を執り行いました。彼女たち三人は、まだ得度はしていませんが、広い意味でのお弟子さんとしてわたしが節分の時期に渾身に拝んだ護摩札に僧名を書いて手渡しました。

これから得度して修行をしていくことになる人がこの三人の中から出るかもしれないし、そうではなくとも仏教の教えにしたがった生き方をして、よりよい自分自身の人生を築いていっていただきたいと願うばかりです。

「一年半くらい前かな、妙泉さん『お弟子さんほしい』っていってたよね。それがどんどん適っていくね」とある信者さまがおっしゃいました。

「周囲からはとんとん拍子と見えてしまうよ」。とのことですが、いっぱい見えない苦労をしています、もちろん。

しかし最近はやりたいと思ったことをなるべくすぐに取り組めるように誓願していますね。

これは念願のインドに行ったことがエポックメイキングなできごととして大きいです。

弟子3人は、30代から40代なのですが、それぞれの性格が違うせいか、はじめてあったにもかかわらず、打ち解け合っているように見えました。

みなさんそれぞれに、介護問題や離婚問題、親との葛藤など抱えておられます。

しかし真正面から自分自身の課題に向き合っていこうねと話しています。その結果、であったときより少しずつ、よい方向へ動いていっています。

わたしは弟子ができて変わったことといえば、師匠の気持ちが少しわかったことです。わたしの師匠は、修行僧時代、毎日毎日の勤行のあと、さまざまなご指導を受けていましたが、基本的におだやかなご性格で、わたしに自分で気づかせるようにものをおっしゃるタイプでした。

世間話や密教の学問的なお話をたくさんしてくださり、その中からわたしは自然に多くを学ばせていただいていました。ときにはわたしが反発してぶつかることもありましたが、わたしにとっては仏道のお父さんのような方です。先生はご指導してくださるさいに、じっと寛大に我慢をしてくださっていたこともあるかもしれません。

お弟子さんたちの育成も課題のひとつになりますが、方針はうるさくいわず、自分自身で学ぼうとする気持ちをたいせつにし、信じて待つ姿勢でいたいと思っています。

ひとは、自分がこれをこそ学びたいと思えば、自然に貪欲に学んでいくものです。

そしてそういう人でないとどんな分野でもプロとしてやっていくことは易しくいないでしょう。

しかし稀有なる仏縁、お弟子さんができることは喜びですし、祖師も喜んでくださることでしょう。

三人とも令和5年にであっています。

たまごがいくつか転がってきたなと思っていたら、令和6年1月に

ぴよぴよと鳴き声がしたのです。

あれ?わたしいつのまにあたためたのだろうと思うと同時に、

節分がおわったら大きな動きがあり、3人が一同に集まったのは、2月25日で、

これは一年前の令和5年に三石不動尊の法人設立準備の会議が行われた日にあたり

ちょうど一年で結縁する方々がそろったというわけなのです。

弘法大師はここ旧跡では、数字のマジックをよくなさいます。

この方々は祖師からのあずかりもので、信じて愛していけばいいんだなと

思いました。わたしには子どもがふたりいますが、子どもたちへ思うのと同じように

信じて成長を待っていきたいと思っています。