神の顕現と水の道

神様が前へお出になるということは、どういうことなのだろう。

これはもう少したってから、全貌が理解されてくると思うので、

いまは、流れだけ書き留めておこうと思います。

1か月のあいだに起こったこと

目まぐるしい変化について記しておきます。

数年後、重要になってくると思いますので。

ほとんどわたしの決めたスケジュールではなかった。

6月6日 出張から帰って御瀧行

6月14日 御幣など注文

6月16日 熊鷹社拝みこみ開始

6月18日 御幣など打ち合わせ

6月25日 水の道調整➀

6月25日 石屋さん打ち合わせ

6月27日 大祓打ち合わせ

6月30日 水の道調整➁

6月30日 夏越しの大祓

7月2日 お焚き上げ法要

7月3日 水の道調整➂、御瀧行

7月4日 大師堂御幣安置

7月6日 古神道文献購入

7月6日 信者さま法螺貝練習

7月7日 東京から帰って御瀧行

御瀧行をなんども行っているのは、都会や人込みに出たら「御瀧にはいりたい」という気持ちをおさえることができなくなったことに由来します。いてもたってもいられない気持ちです。

必要になったもの

御幣や祓串などを高野山でただ一人神さまのものをつくる職人さんに作っていただきました。

職業は表具師さんです。この方と数年ぶりにゆっくりとお話させていただく機会が自然に生じ、

神具をつくっていただく運びになったのです。これもひとつの必然でもあるふしぎ。

もう一つは、古神道の祝詞の本を通販で購入したのですが、そこにその出版社の目録があり、みているとどれも読んでみたいものばかりだった。

新幹線の品川駅近くになったとき、「祝詞の出版社に行ってみよう」と思い、土曜日はお休みなはずでしたが、社長さんは「だれかがくると思った」と会社にいらっしゃり、わたしはいろいろと本のページをめくって注文することができました。

祝詞の本一冊ですぐに社長さんと出会えたということで、深い縁を感じたものです。

白山を開いた泰澄という僧

ちょっと引用します。『道教と日本人』(講談社現代新書)より

万里の地といえども、一旦にしていたり、翼なくして飛びつ。吉野山に至りて、一言主の縛を解かむと欲ひて、試に苦に加持するに、三匝してすでに解けぬ。暗に声ありて叱ひ、繋ぎ縛ふること元のごとし。また、もろもろの神社に向ひて、その本覚(本地)を問へり。稲荷の社にして数日念誦するに、夢に一人の女あり。帳の中より出でて告げて曰く、本体は観世音にして常に補陀落にあり、衆生を度せんがための故に、大明神と示現すといえり。阿蘇の社に詣づるに、九頭の龍王ありて、池の上に現じたり。泰澄いわく、あに畜類の身をもてこの霊地を領せむや。真実を示すべしといへり。日漸くに晩むとするとき、金色の三尺の千手観音ましまして、夕陽の前、池水の上に現じたまへり。泰澄、数百年を経て死なず、その終を知らず。

(泰澄の呪験力のすぐれたることを示す。神仙的能力を強調する)

上記を三石不動尊にあてはめてみますと…

境内に伏見稲荷大社分祀の熊鷹大神さんがおわします。

わたしはさいしょ、そこに十一面観音さんを感得したのですが、

こちらが千手観音さんだったり如意輪観音さんだったりもするのでしょう。

さらに、本堂(弘法大師堂)に昭和初期に祀られたのは

不動、観音、弘法大師。

こちらは御瀧におわす代表的尊格の3つになります。

稲荷さんの中から一人の女性があらわれて、こちらは観音さんの化身になるから

観音さんが還られるところは、補陀落であり、その補陀落への乗り場は

不動瀧の三角錐の頂点であり、そこへ御霊はのぼっていきますから、この場合の観音さまは

34番目の観音弁天という尊格になります。

四所明神はわたしの感得ではもともとは4柱でなく、3柱の尊格。観音と弁天はひとつの尊格としてあったと思います。オオゲツヒメノミコトはあとから加えられたのでしょう。また弁才天はこの場合、イチキシマヒメノミコトというより、九頭龍だったのでしょう。

神像はさいしょは男性神1女性神2です。(私見)