滅びと芽吹き
チベットにもシャーマニズムがあります
チベットには、仏教と同時に発展したポン教という教えがあります。
ポン教は、どちらかというと土着の、シャーマニスティックな教えであり、あらゆる自然物に精霊が宿り、その一つひとつに神々があるという基本の考え方があります。
チベット仏教はこのポン教とある意味、習合して発展したところもあるようです。
これは、日本の真言密教が自然崇拝を中心とする古神道と習合していったのととてもよく似ています。
言い方をかえれば、密教は、土着の自然崇拝と自然に習合していくものだということもいえるのではないでしょうか。
女神の台頭
密教とはなんなのでしょう。
これは異質なものが融合してできうる新しい価値を映し出す鏡といってもいいのかもしれません。
中国では密教が衰退するときに日本へと、
インドでは大乗仏教が、現世利益を真正面からといたヒンズー教に押されて、チベットへ流入するといった歴史があります。
その事実のうらにあるのは興亡です。それは破壊と再生ですね。
さて、インド後期密教では、女神信仰のパンテオンが興隆していました。
チベット・ネパールでも例外ではありません。
たとえば、八地母神やヨーギニー女神などが、主尊のパートナーとなったり、女神単独で曼荼羅の中尊になったりするようになりました。
女神信仰は、もともと仏教以前に信仰されていた非アーリアの神々が中心です。アーリア人の侵入のなかで、後方に追いやられていた尊格が、ふたたび前方に出てくるありさまは、伐採された樹木のあとに新しいひこばえが芽吹いてくるような清々しさを感じられます。
滅びたと見えているものでも、どこかにその種は残っており、機が熟せば、あらたな芽吹きとしてあらわれてくることを密教思想は示唆しているように思われます。