慰霊祭後のこと

4か月半のできごとから

令和6年5月3日の三石不動尊(自坊)の年間行事でもある定例慰霊祭が終わりました。

昨年の12月16日のタイ・バンコクで感得して以来

3月19日の開闢を経て、5月3日結願ということで

戦没者・戦犯戦死者などの慰霊を行います。

少年兵たちは、弘法大師堂からご神体までの参道にびっしりと並びました。

毎年、いっしょに拝んでくださる行者さんがあり、彼は1000体のお地蔵さんが必要という

お声を受けていたそうです。

ことしは、本堂でご一緒に拝んでくださる住職さま方は遠方から駆けつけてくださり有難かったです。

このtipsでも記してはきましたが、すべてのことを言葉にできるわけではありません。

令和6年の慰霊祭には約60人の参列者がありました、三石不動尊のお堂は30人集まれば満員です。

来場者の車は境内の外まで並んでいました。

翌日は、高野山にて横笛の参拝同行が朝・昼・夜と入っていて、わたしは三回奥の院を

拝みながら来山者さんをお連れしました。ハードですがこれも必要なことだったのでしょう。

おわったのは9時ごろで、

さすがに足が痛くなりましたが、この日はこうすることになっていたのでしょう。

朝の部のとき、ひょんなことから、いつもはコースにない、奥の院から少し離れたビルマ塔をご案内することになりました。

ここ何年かの間、行ったことがなかったのですが、慰霊祭の内容と同じ類の展示があります。さらに地下にはお釈迦様がおわします。じつはここは私の師匠のお寺のすぐ隣にあります。

戦没者の慰霊を終えての、「これからも戦争慰霊は続けていきなさい」というメッセージと受け取りました。個人的には特攻隊の少年兵は令和9年までにあげていけたらと願っています。

5月5日は同じく山麓の尼寺である真田庵さんの法要に出仕しました。そのあと自坊三石不動に戻ると

飛び入りのご祈祷がはいり、対応しました。

寺院、サロンとわず、ほぼ毎日のように、どなたかのお悩みをお聞きし、それに合わせたご祈祷に対応している日々、さいきんはとくに、祈祷僧として大きな変わり目がやってきていることを感じています。

5月6日ようやくゆっくりできる時間がとれたので、朝、師匠にあいにいき、これまでのことをかいつまんでお話しました。

師匠との対話

師匠は・・・

自分自身はそういった経験はないから、わからないけれど、近代のころ、神がかり的な状態になって、教義もなにもないところから、新宗教というものが出てきたね。大本教とか、黒住教とか、天理教とかいろいろあるけれど・・・

いまの弁天宗のはじまりもそうかな。

興隆したものの衰退していく例も多いけれども・・・

はなしをきいていると大変そうだね、でも、ひとつの案件をそこだけ集中していくより、ほかの案件なども広く見渡しながら、あるときには原点の弘法大師信仰(祖師信仰・日本の仏教はみな祖師信仰)に帰るということでバランスをとっていくとよいのではないか。

もちろん、一点集中を深めていくことで、さらに関係のものが集まり広がっていくということもあるけれども・・・

混乱したときには、原点の信仰を思い出してバランスをとるようにすれば

よりよい状態で理解も得られながら進んでいけるんじゃないか。

教義がないところから新しい教祖が生まれるのはいつも女性だったね。

わたしは・・・

こんかい、特攻隊の少年兵だけでなく、焼夷弾を受けた人や、不審な死に方をした政治家などもいろいろ集まってきました。

12月16日に端を発するということも、インドやタイを訪問したことで、自分自身も大きく変化したことは否定できません。

祖師弘法大師は以前と同じように身近にいてくださいますが、その遠くにはお釈迦さまもいらっしゃるようになっています。

そして、わたしたちのいるところから放射状に、わかりあえる各国の僧侶がたくさんいます。国や宗派が違っても、

「仏教」というキーワードで繋がっています。

具体的には、4月26日の夜から27日の朝にかけて、たいへんお堂が重くなりました。

27日朝のご予約が午後にキャンセルになったので、近しい信者さんたちと「お護摩をしたほうがいいよね」となり、(ここは別のTIPSに書いてあります)急遽、お瀧で5月3日まで待っててくださるように、お願いしましたら、少年兵たちは一列に並んでくれたのです。

師匠は・・・

人間の歴史は戦争の歴史。

人間にもやはり動物的なところがあるね。

中心の力で周縁は力関係で群れて集まってくるというような。

高野山の大日如来になぞらえることもできそうだ。

きっとだいじょうぶだ。