一心に集中する
かつての日本人は、一心に集中することの価値を知っていました。
たとえば、生涯に自分の仕事をひとつ持ち、人生をかけてそのしごとを錬金していくというようなことが価値あることとされました。
人生をかけてひとつのことに打ち込むことの価値をだれもが認めていたのだと思います。
戦後の日本が大きな力に操られてあったとはいえ、経済大国となってきた背景には、
この集中力がひとつあったのだと思います。
また、日本の職人さんの技術が高いレベルであったというのは、そうむかしのことではありません。
しかしあるとき、日本はものづくりの矜持を放棄してしまったときがたしかにありました。
ひるがえっていまはどうでしょうか。
金銭がすべてと思うことが、勝ち負けにこだわりすぎる心が、美しい自然を破壊し、自分だけがよい思いをしようとすることが、その気持ちの正当化をする情報ばかりを収集し鵜吞みにして、人間と人間の断絶と隔絶を生んでいます。まるでそれがしあわせであるかのように、信じ込まされる新しい教えであるかのようです。
人間はよかれあしかれ、思ったこと信じたことが反映される世界に生きます。
だから常識とかその社会のしくみとかは、一人ひとりの人間にたいへん大きな影響を与えてきます。
たとえ人をしあわせにしないことでも、それを信じる人が多ければ、それは社会の現実になっていきます。だから自分が見ていないことを報道などだけで安易に信じることは危険なのです。
操作された情報もありますが、一番こわいのは、みんなが信じることが現実になるということなのです。多くの人が修羅を思えばそういう社会になります。
悲惨な現状の映像が流れたら、多くの人の中にはそれが現実となり、そこから本当にその現実をつくっていくわけです。
どうすればよいかというのは、一人ひとりが自律・自立することです。
人間は弱いので何かに依存していきていましたが、いまという端境期は、それを棄てて、自律・自立をどう促すことができるのかが問われています。
それに対して、仏陀の仏道はこたえてくれます。
信心をすすめるのは、よりよき未来を引き寄せるためです。
習俗や慣習ではなく、仏陀のおしえに立ち帰ってみましょう。
自分自身を見つめるところから始めてみませんか。
ひとつのことに集中すること・・・それは仏道でいうとひとつ、禅定です。
はじめるに、ときが遅いということはありません。
信心とはなにか・・・
それは自律・自立へ向かう道です。厳しい道ですが、いまに集中し、発心すれば(あなたが望みさえすれば)
到達することができます。