お彼岸の入り 嶽の弁天さん月まいりから

令和6年3月17日、春のお彼岸の入りです。

本日は師匠寺の朝勤行に参加してから、有縁の嶽弁天さんの月まいりを

させていただきました。

白くて丸い「酒饅頭」をお供えにもってあがることにしました。

高野山大門からつながる、この嶽弁天への参道坂道を

いったい何度上がって下りたことでしょう。

数えられません。

きょうは、参道を歩きながら、インドのことを思っていました。

令和5年12月17日~23日まで、念願のインドを旅しました。

思えば昨年の5月ごろのこと、皮膚になにかがおりたようになり、

全身に皮膚症状が出て、つまり痒くて、元気を失っていたことがありました。

8月にはいると収束したのですが、ひどいときには、実妹や実娘などが

心配して、浄化の一環でバスソルトを送ってくれたりしたほどでした。

5月から始まったので、100日くらい皮膚トラブルに

苦しんでいたことになります。

そんなときのこと。インド人の友人から電話がかかってきました。

「先生、げんきしてる?」彼は日本人の奥様がいて日本とブッダガヤを半々で

暮らしています。

「うん、ちょっと目標を失ってしまって」とわたし。

「どうしたの」。

「お寺を預かって法人化するところまで行ったら、目標がなくなってしまったの。これまで、前の住職との約束を果たすために、全力で走ってきたものだから」

すると彼は「インドにいらっしゃいよ。信者さんとインド仏跡を旅するということを新しい目標にしたらいい」。

彼はなんとはなしに、わたしがどうしているかなと思って電話をくれたといいます。

私にとっての聖地・インド

電話を切って、「わたしはむかしから、インドへ行くのはひとつの夢だったな~」と思います。

20代のときヨーガは師範の手前まで打ち込んでいたのですが、そのときに、インドへ行きたいと強く思いました。当時ついていた先生から「まだはやいな~」といわれて、そのままになっていました。

インド。仏教が誕生したところ。さまざまな宗教が共存する地。

行ってみたい。

そのときは私の思いに火がついたということでしたが、夏ごろになると、知人の旅行会社さんが

乗り気になってくださり、プランを作ってみようということになりました。

そんなときです。

12月に、インド・ブッダガヤでダライ・ラマ法王が指揮なさるという、大きな仏教イベントが開催されることを知ります。なんでも世界の2000人の僧侶が参加して繰り広げる祭典らしい。

わたしは、自分自身がこの祭典に参加しているようなデジャヴをみました。

そして、まだインド仏跡ツアー参加希望の方々が集まってはいなかったけれども

自分自身は下見もかねて、年内にブッダガヤにいくと決めました。

10月にパスポートをとり、(高野山へ来てからというもの10年くらい

海外へ旅することはありませんでした。前のパスポートは切れています。

新しいものを申請して手にしたとき『これからの人生ではこれをよく使うようになる』と

感じました。

そして12月1日には、わたしもブッダガヤでの祭典に参加できることとなったのです。

自分が強い思いを持って決めれば、現実はあとからそのとおりに動いてきます。

旅立ち、いざ

令和5年12月16日、関西国際空港にいました。

これからバンコク経由にてガヤに向かいます。

お寺から空港までは旅行会社の方のハイヤーで、

バンコクへは三石不動尊にこられて護摩祈祷を受けられたことのある信者さんが、

ガヤへはインド人友人がおむかえにきてくださる段になっています。

みちは至れり尽くせりでひかれている。

そこをほんとうに久しぶりの出国手続きを経て、搭乗機へ。

どきどき。ほんとうに実現したんだな。

ダライ・ラマ法王への謁見も申し込んでありました。

お寺を宗教法人というきちんとした形にしたことは、わたしの責任であり功績。

お大師さまと丹生明神に引っ張られてですが、約4年、われながらほんとうによくやってきました。

そんなことへの、ご神仏からのねぎらいです。

「よくがんばったから、おまえの夢をかなえてやろう」って。

こんなことが起こるんだ、こうして努力は報われていくんだ、ってほんとうに思いましたね。

関空からバンコクへ向かう雲の上では、かなりいろんな思いが交錯して、

でもほんとうにインドへたどり着けるのだろうかという気持ちもありながら、

高揚感に住していました。

バンコクにて辻政信氏とあう

バンコクでは、当初は5時間くらいの乗り換え時間だったので空港で待つつもりでした。

それが航空会社の都合でバンコク滞在が半日以上あることになりました。

あまりあることではないらしいですが、そうなったので、旅行会社さんは

「便をかえるか、せっかくだからバンコクを観光なさったらどうですか」とすすめてくださいました。

旅行会社さんからは「エメラルド寺院」という観光寺院の名前があがりました。

わたしは仏教国であるバンコクもほんとうにせっかくだからおりてみることにし、

師匠とお話したときに「バンコクも行ってきます」となにげなく言いました。

そうしたら師匠は「バンコクには日本人納骨堂がある」とおっしゃったのでした。

この言葉でエメラルド寺院ではなく、その納骨堂のあるリヤップ寺院におまいりに行くことにしました。この流れもあとから考えればふしぎ、僧侶にとって、師匠の言葉はたいへん重くうけとめるものだからです。

バンコクでわたしをお世話してくださった信者さんは、わたしが来ることを知る前に

「リヤップ寺院」のことがなぜか話題になっていたそうです。

辻政信さんと出会う

バンコクのスワンナプーム国際空港で信者さんと落ち合うことができ、そこからリヤップ寺院に一緒に行って

おまいりをすませると、わたしは強い頭痛と吐き気に襲われてしまいます。

信者さんはご相談があるとおっしゃってホテルを予約してくださっていましたので、

リヤップ寺院からホテルに移動しました。その間中、ズキズキする頭の中とつわりのような気分の悪さが私を苦しめていました。

なにかが入ったのです。

ご祈祷をご希望されている信者さんの前では、なんとか調子の悪さを悟られないようにがんばっていました。ホテルの部屋で熱いシャワーと冷たい水を交互に何度も浴びました。

信者さんから出た名前は「辻政信」。これももともと、わたしが来る前から、信者さんは仕事仲間である日本人の方と話をしていたそうです。「戦争」。

リヤップ寺院に潜伏していたこともある日本陸軍指導層であった軍人さんでした。そして辻さんは1961年にバンコクのリヤップ寺から出立してラオス方面にむかい、おそらくはメコン河付近で、行方不明になっています。

このときのわたしは、あまりにしんどかったこともあり確信するほど、はっきりとわかりませんでしたが、リヤップ寺院でわたしは辻政信さんと会ったことを帰国してから知ることになります。

辻さんは何か伝えたいことがあって、わたしのなかに入られたのでしょう。

このバンコク・インドの旅のおはなしの続きは別の項にて書くことにしまして、

ほんじつ令和6年3月17日に戻りましょう。

嶽弁天の月まいりの間、インドへとタイムスリップしていました。

これはサラスワティー様の采配、かつてガンジスと並ぶほど大きな大河、サラスワティ。

インドの女神、サラスワティは弁才天さまですね。

弁天さんがわたしをインドへ舞い戻らせたわけですが、

経験や記憶は、戻ろうと思えばすぐにそこへ戻れるものなのだと知ります。

だから経験はたくさんしておくのはよいことなんですね。

ほんじつの嶽弁天でのわたしの誓願は、

「世界で活動する女性僧侶になります」ということでした。

思えば昨年の宙ぶらりんな状態を脱するには

ブッダガヤやバンコクに行かなければいけなかったわけですが、

わたしのあらたな強い決意は、ふたたび嶽弁天、ここで生まれたのでした。

(続く)