近現代と未来について

ふと思ったことなので、軽く読んで欲しいと思うのですが、今はもう近現代の価値観が飽和状態になっていて、あちこちで首長選挙も行われていますし、僧侶の世界でもそうなのですが、まず財源ありきと言う風な考え方がもう本当に行き渡ったような感じがありますよね。でも本当にそうだろうかなぁって私ちょっと考えたんですよね。これはもう直感的ですので財源があったところで良いプランとかそれを進める人間とかそれが大事と言う議論も、まぁいつでもされていることですけれども、財源があって初めていろんなことが動き始めるのだろうか。密教の過去、現在未来の考え方を取り入れてみると、まず未来をそこに置いてから歩んでいくと言うことがあります。でも財源ありきの考え方だと現在を大きな中心にして座っていると言うイメージがあります。もちろん何かの事業をするためにお金がいると言う事はあるでしょう。それでもその事業を行ったことで、どのように変化するどのような価値を創出するということがまずないとばらまきになったり、ただ単に一定の人が楽をするような政策を打つだけであったりと言うことになるのではないでしょうか。そうすると全体のバランスを考えた時、民度が低下したりすることもあるかもしれません。人は誰か自分以外の人がよくなることにとても敏感で、実際良いプランであってもそれを進めていくときに弊害の方が多いと考えられる場合には立ち止まってしまうのはこの民主主義において世の常であったかもしれません。だからあれほどまでに大きな犠牲があった原子力発電もまた再稼働して、それは多くの人たちの電気代を賄うためと言う大義名分があるからかもしれませんが、大きな地球規模の考え方で言うと、破滅に向かうと言うこともあるわけです。だから古今東西戦争はなくなりませんね。私は戦争がなくなっていくと言うことを1番の誓願に置いているもんですから、この近現代の進み方と言うことに今とても危惧を感じている人間の1人です。

地球の環境はもう悪くなっているのですから、これ以上悪くしていく事は生き物として本当は許されないことだと思うんです。だから近現代の価値の行き着く先はもう見えていると言うことなんです。その立場に立つならば、これからの未来の地球や人間やこの環境はどうなったら良いかと言うことから始めなければならないでしょう。今までのやり方やたとえ今までうまくいっていたと見られているやり方でも実はそうではないと言う事は、後から歴史が証明することかもしれません。そうならないように今一人一人がなぜ生きているのかなぜ生まれてきたのかどうやっていつか死ぬのかと言うようなことを考えていくこともまた大切だと思います。そしてそれが宗教なのではないでしょうか。現世で人を救うと言うことも確かに大切です。でもその救い方と言うのが、政治的になっては宗教の意味が薄れてしまいます。答えは出すものではなく、問い続けることが宗教です。そして私たちの中には必ずあると信じたい気がします。