この1年を振り返って(令和7年度)
本日の瞑想では、令和7年は急ピッチで進んだ、もっというと、自分でいうと語弊があるかもしれないが、霊的に急速に成長したようです。
弁才天秘法
令和7年を振り返りますと、3月に沖縄へ慰霊に行き各所をまわりまして、高野山に帰ってきたら、嶽の弁才天に修法を捧げようと3月30日より、10月18日まで、123座の弁才天秘法を続けたのです。法務や横笛の会の活動をしながらですので、毎日ではなく、あいまをみつけてということでしたが、調整して3日間自室にこもって行ったりもしました。
それで10月18日に123座、今期はこれでおしまいと弁才天さまがおっしゃり「次は火へ進みなさい」ということで、10月19日にはインスタグラムでお話をしたのはこれは弁才天さまに動かされたのは自明であり、わたしは普段インスタグラムではお話をしません。
さらに続くのが10月21日に、元オフコースの大間さんから連絡があり、以前から護摩祈祷といっしょにドラムをコラボする話をしていたのですが、八千枚護摩に奉納演奏をしていただくことになったのです。これは毎月の恒例修行、京都の東寺にマイカーで向かっているときに大間さんから連絡が入ったのでした。
そして、焼八千枚護摩を伝授していただいた、同じ和歌山県内の住職さんのお寺に行って「来年5月にやります」と報告しました。先生は「そうだったのですね。拝んでいるときあなたが出てきたので何かあると思っていたんですよ。ようやくやりますか」とおっしゃいました。
八千枚護摩へ
八千枚護摩は令和4年6月29日に伝授いただいていて、ほんとうはすぐにでも修したかったのですが、わたしはいろんなことをしているものですから、そして信者さんや会員さんを中心にまわっていた生活が続いていたので、なかなか修法にそれも八千枚の行に集中するタイミングが見つからなかったのでした。甲子の日に木を切っていたことはあったのですが、、、
で、令和7年はじつは、とりあえず4月の甲子の日に木を切っていたのでした。修すると断言することはできないけれど、もしかしたらという感じで切ったのです。これは弁才天秘法をはじめたころでしたね。
さあそれからです。令和8年1月にはインドで国際講演をすることが決まっていたので、八千枚護摩を見据えながらも、やはりインドが目前なので、講演原稿をつくったのが11月から12月。並行して8pの冊子「いつかどこかで」の編集制作にもとりかかり、令和7年の終盤はライター時代に戻ったみたいでした。
正月祈祷からインド修行へ
毎年2月の節分集中祈祷は1週間拝みこみます。それがことしはインド遠征などでできないので、年末からお正月の集中祈祷に切り替えて、令和8年1月3日には三石不動尊護摩堂で、例年よりたくさんの人が集まって厄除け護摩祈祷を行いました。遠方の方にはその後発送作業がありましたので、1月前半はインドへの出発準備とそれらに忙しく過ごしました。1月21日に関空を出発し、バンコク経由でガヤに入ったのが1月22日。
ブッダガヤのマハーボディ寺院は3年連続でおまいりできて、そのあと25日にはガヤからデリー経由ではじめてのボーパールに入りました。ここで国際仏教平和祭が行われるのです。
24日の夜にボーパール空港におむかえにきてくださったブッダブーミの住職さんと信者さんとの出会い、さらに25日の平和際、26日のサーンチー仏塔へのおまいり、27日はボーパール観光と夜にはわたしが主体となって、ブッダブーミの住職さんの主催で日本の真言密教の加持祈祷会を行うことができ、60人の現地の信者さんにひとりひとりお加持をさせていただきました。
28日にはお寺の許可を得て、1984年の化学工場事故の慰霊を5時間かけて行い、29日の帰国の日には、ブッダブーミの役僧さんのような方やみなさんと一緒にいきとしいけるものたちへ向けたチャンティングを行いました。さらに帰国する間際にはその日生まれたばかりという赤ちゃん、これはブッダブーミの信者さんが経営している病院でブレッシングを依頼され行いました。
ということで、ほんとうに思い出深い、3度目のインドになったわけです。
息子の受験と進学
帰国後は、じつはわたしの息子は大学受験で、2月は伴走の日々でした。私立も受験し、本命の国公立の入試が25日にあり、結果が出るのが3月9日で、伴走も終了しまして、4月から大学生です。
3月11日には金剛峯寺でわたしの師匠の法印転衣式がおこなわれ、息子といっしょにお祝いの席に行ってまいりました。ということで、ほんとうに「いく、にげる、さる」という1月2月3月。
そんな中、八千枚護摩の護摩木を割ったり、修法復習をしたりしていると「流れをみるとわたしは八千枚護摩を修するために三石のお寺を再建したのかなあ」と拝んでいて思ったのです。
お不動さまは、八千枚護摩のご本尊になると釈迦不動になられます。
そして、不動明王は菩提心そのものです。
息子は8歳から18歳まで高野山の子のひとりとして育ち、いろいろありましたが自分の道を見つけてくれました。私の令和7年が激動だったと同じように、息子もまた、短期留学、部活ではインターハイ、そしておかげさまで志望校に合格、激動の令和7年度を経てぶじ、大学生になります。
子育ては、自分でうんで自分の血をわけた子であることはそうかもしれなけれども、その真実って、一定の期間、育てさせてもらっている、ということなんだなあって実感しています。
わたしは上の子が10歳離れているため、子育てを30年してきました。そして、子育てが終わるときというのがいま、目の前にやってきたわけです。大きな節目に、間をおかず、焼八千枚護摩が控えているというのもまた、恵みであろうと思います。