さなぎの羽化
最近、ちょうちょを見かけないなと思っていたら、でも今は冬だからだいたい蝶は飛来しないでしょうと。
そしたら「自分の中にいるんやで」と。
わたしはさしづめ、「さなぎ」。じっと動かないけど、細胞はすべて変化の最中。
そんなこともあります。
2025年12月。この紀州高野山横笛の会のウェブサイトを構築してから3年経ちました。
DMMオンラインサロンも同時期に立ち上げて、こちらは本格稼働は同年、3~4月になっていましたが。
たくさんいろんな記事を書いてきました。
忘れないようにと、とりあえずと書き留めることもありました。貴重な写真も撮ってきたら
とりあえずアップして共有できるようにしました。
それは私の仕事の一つであったと同時に、この世の中との交流でした。
石の寺院のなかで拝んでいる私の上に白い法衣をまとった女神がいて、きらきらと輝く光の筋のなかで
つながっているという象徴と同時に、ふるさとの街なみが出てきたということは、まさにわたしの自分自身の内側の変化が象徴として現れたものでしょう。
石の寺院は変わらないもの、深い精神性。
光の存在は未来の自分自身。
故郷の街は自分自身の根とか安心、原点。
これが同時に出てきたということは私は根をもったまま未来へ進むということです。
このイメージをみたとき、わたしは「美しい事実」をみたように思います。
人間の生きる道とは本来こんなにきらきらと美しいものなんやろうね。
それでも切ない気持ちや悲しみもそこには同時にあって、それでも進まなければならないときもあるのです。それはまさにジャンプするということなのです。
さなぎから蝶になるとき。未知なる大きなジャンプは人間の一生のなかには
まれではあるが、起こりうるものでしょう。
進むときは、流れがそっと背中をおす。
白いリボンがメタファーとしてあらわれた。いままでの縁が離れて、流れながら新しい縁を結んでいくのです。胸のあたりがなにかざわざわとしています。これも羽化のせいでしょうか。
なにか胸から噴き出してくるのですが、それは白いものもあるけど、濁ったものもあります。
慣れ親しんだものと離れていく切なさももちろあります。
人、場所、役割、習慣、生き方、思い出。
わかれは切なくなるのはそれだけ大切にしてきたから。
そして切なさは終わりではなく、ちゃんと生きてきたという証なのです。
八千枚護摩は、区切りということならば、終わりではなく始まりを象徴するものだと感じています。
いま、わたしは羽化している途中のさなぎです。
未知なる世界はおそれもあるけれど、わたしがいつも言っている言葉、大丈夫。
恐怖からでなく希望から、選び取る橋渡りでありたい。
大きな変化の前には枠組みが一度ゆるむ。
役割、立場、期待、方向性、価値観。
これらが一度ふわっとほどける。だから外側について考えるのは後でもいい。
いまは自分自身の変化をみつめてゆだねるとき。