魂の中心に戻るとき
「信者さまのため」「誰かのため」「子どものため」エトセトラ
僧侶になってからというもの、依頼があるからということもあるが、
人のためにばかり拝んできたように思う
皆さんこんばんは。SNSを少しお休みして、こちらのウェブサイトの方で祈りの言葉をお届けしていきます。iPhoneで記事が書けることを今まで知らなかったので、パソコンを開けなければ編集執筆に取り組めないと思い込んでいました。でもこんなふうにしてiPhoneでも書けるので、空き時間にできるだけその日のことを書いていきたいと思います。
なぜ私が7年間も続けてきた朝のFacebookでのご挨拶を少し休止しようと決心したかといいますと。これは自分自身の拝みの種類といいますか感じが変わってきたことに気づいたからです。
私は僧侶になって以来、依頼があったこともありますが、人のため信者様のため子供たちのため誰かのためそのような祈願を中心に行ってきました。僧侶になって初めて頼まれたことが病気や事故の回復と言ったことでした。それが喜んでいただける方向に動いたことで、私は密教の修法により祈祷をしていこうと言う決心をしました。
しかし、今年令和7年になって、弁才天秘法を修法する中で、自分自身の魂の中心に戻っていくと言うような体験をいたしました。
もちろん周囲の大切な人たちのために拝む事はとても大切だし必要なことです。しかしながら、自分自身の魂をおき去りにしてしまったならば、それは本末転倒と言うものでしょう。きっとその時期が来ていたのですね。弁才天や弘法大師が、もう一度自分自身の中心に帰って方向性を見定めるようにと言う示唆をしてくださったのだと思います。お導きと言うことも言えると思います。
境地のチェンジ
そんなこんなで、今年は大きな境地のチェンジが行われたということができそうです。文章を書くこともまた、書けない書けないと思っていたのですが、最近は少しずつ書けるようになってきて、もちろん目標としていた冊子や本の形に今年中にまとめると言うことはできなかったけれども、小さなパンフレットを完成できるようになると思います。それだけでも大きな成果ですし、皆さんへの頒布品として使えるのでよかったと思っています。
これからやりたいこと
それと同時に執筆にも関係があると思いますが、高野山で1番古いものはお大師様が唐より持って帰ってこられた経典群であると言う事、だから、私は修法やお次第の研究をしていきたいなと思っています。もちろんチベット仏教の事についてもさらに学んでいきたいです。もしかしたら私の魂の光の道へぎゅっと戻してもらったのかもしれません。自分のために拝む事は人のため、信者様のために拝むことを否定すると言うことではありません。私につながっていただけたら一緒に向上できるような人間になれば良いのです。そのために少し空白の時間をいただきさらに深めて参りたいと思っています。今後ともよろしくお願いします。FacebookやInstagramはお休みしていますが、Messengerはお使いいただけるのでどうぞ必要なときにはご連絡くださいね。感謝合掌

