観世音菩薩普門品と弁才天の功徳
南無観世音菩薩
大水に流されようとも観世音菩薩の名を唱えれば浅瀬にたどりつく。
多くの人が宝を求めて大海に入ったとして、暴風が吹き欲に流された末の羅刹の難にたどりついたとしても、たった一人でも観世音菩薩の名を唱えれば全員が難を免れるとされます。
ある人が誤解のもと処刑されているときでも観世音菩薩の名を唱えれば執刀が折れて処刑がまぬがれたり、悪い鬼たちは悪意をもって見ることができなくなる。
盗賊の危険からも逃れることができるし、おそれや恐怖、怒りからも逃れることができる。
子授けの祈願においても自由自在に願いをかなえてくださる。観世音菩薩を敬って精進すれば豊かな人生になる。火の穴は転じて池水となる。
多くの災いが降ってこようとも観音の不思議な力を念ずれば助けられる。
怒りやおそれなどの感情、これらは無明、無知による感情であり、心の中に観世音菩薩を念じることで開かれる。
つまり観世音菩薩の名を呼びさえすれば、どんな人もどんなときも救われ安心して生きることができるということ。そして、すべての生きとし生ける者が等しく仏の声を聴くことができるように、観世音菩薩はさまざまなお姿となって、あらわれ、法を聞くものに一番通じるように説かれるというわけである。福徳が無限の海のように集まった存在が観世音菩薩なのだ。
ここまで書いてきて、私が観想でお出会いしている海のなかから現れてこられる観音さまが、なぜあれほど大きいお姿なのかが理解できる。
観音さまは海におられる。苦悩と死において最後の救済者であるといえる。それは、おそらく魂の存在となってからもそうなのであろう。
そして、宝の島におられるのが弁才天さま。
人々は欲にまかせて、宝を探して船出をするけれども、その欲がかってしまったら羅刹の国へたどりついてしまう。弁才天の宝珠、宝の島にたどりつくためには、観音さまの教えをよく守り、観世音菩薩さまを尊崇してお名をおよびし、欲をなくし、清らかな心身を取り戻していけば、おのずと弁才天さまにもお出会いできるのだということである。
観音弁天の修法
わたしはよく観音・弁才天を同時に拝みます。
高野山の神様、四社明神というのは、仏教の尊格名にしますと、胎蔵大日、金剛大日、千手観音、弁才天となります。
観音、弁天の修法はこの四社明神の尊格でもあるのです。
観音信仰をもととします。つまり、どのような場面においても、観世音菩薩に帰依することで必ず守られていくという信仰です。羅刹にたどりつくことがあっても助かるような危機的な場所からも引き上げてくださいます。そして海に大きくおわす観音さま。
弁才天さまも大海原に浮かぶ宝石でできた島にお住まいになります。
航海を続けながら、さまざまな経験を経て煩悩をなくし、欲望を流して、そうすることでたどりつけるのが弁才天さまの宝の島。
それを支えてくださるのが観音さまです。
観音さまの灯火が目印となっていつかそれぞれが望む宝珠をその手にできるように。
大海原は人生行路です。
「世尊よ、人々が観世音菩薩の変幻による奇跡について語ったあらゆる方向に開かれた門の章を開くならば、人々の功徳は少なくありません。世尊がこの章を説いている間、ここに集まっていた八万四千人の人々は、ほかに比べることのない完全なさとりへの希求を起こしていくのです」