弁才天とわたし

宇賀弁才天

令和7年に弁才天秘法を修し始めましたが、100座を目指して開闢してすぐに、高野山で宇賀弁才天像にお出会いしました。

わたしは平成28年3月30日に高野山に移住してすぐに、いえ、おそらくもう少し前、平成28年1月に、嶽の弁才天との結縁があったと思います。

3月30日から3年間、嶽弁才天のふもとに住みました。その間、さまざまな神秘体験がありました。その後少し離れた山内のマンションに移りましたが、そのころから毎月の嶽弁才天への参拝修行を行うようになりました。

高野山在住10年

高野山10年目の感謝として、とくに嶽弁才天に向けて弁才天秘法を100座修することに決めたのは令和7年に入ってすぐのことです。これまでの月参りではなく、本格的に嶽弁を拝まなければという切迫した思いがありました。

というのは、令和2年から私がおまもりしている三石不動尊のお正月のお勤めを終わったときに「ことしは別の場所を拝みこむ」という霊感的なものがあり、それはどこかよく考えてみたら嶽の弁才天しかありませんでした。

それ以前に、「妙泉さんはいったいどの尊格に一番ご縁があるの」というふうに複数の人から言われていました。中には「弁才天を本格的に拝んでみたらどうか」という人もありましたし、「あなたは嶽の弁才天に縁がある」という人もいました。不動尊、弁才天、師匠のお寺のご本尊は阿弥陀如来だし、観音さまにもご縁があると思います。横笛の会では、金剛界大日如来さまも初期からおまつりして拝んでいます。

嶽の弁才天を拝む

そんなこんなでお正月後、それではと「嶽の弁才天さまを拝む」ということを決めるのはすぐだったのですが、「わたしは嶽の弁から三石不動の再興のためお使いに出されたのか」という思いが浮かびました。三石不動尊は弘法大師の若き日のご修行の地。そこは日本列島の中央構造線(龍脈)が走っていて、波動が荒々しいほど強くて、静かで修行に適した地となっています。

そこで眠っているご本尊を起こさせていただき、5年間修行したり人さまのために拝ませてもらうことで、たいへんよい修行となりました。ここで今一度、嶽の弁才天さまが「一度帰ってきてわたしを拝みなさい」とおっしゃったことは、「わたしはお使いにいかされていたのか」という問いを大きくしました。三石不動瀧と嶽の弁才天はどこか似ています。

弁才天秘法を続けているうちに、滝水の女神たちは弁才天の妹神であるという霊感や、いつか嶽の弁才天から言われていた「九頭龍をさがしなさい」というお言葉に、御瀧に九頭龍の娘神がたくさんおわすことに気づいたり、いろいろな霊性が迫ってきました。

それで「ああやっぱり、わたしは嶽の弁才天から三石不動瀧におつかいに行かされていたんだな」と気づいた次第です。

女神たちの部屋

移住してきた3月30日と同じ日の令和7年3月30日に嶽の弁才天にのぼって開闢をしました。少し霊的に乱れていることを感じ、翌日31日にも上り、場のお清めをしました。そうしますと次に上がったときには霊的乱れがおさまっていました。余談ですが平成31年3月30日には横笛の会のはじめての香と瞑想&ヨーガワークショップが行われた日です。330の数秘があります。

わたしのマンションの仏間におわす宇賀弁才天を嶽弁才天の分け御霊として毎日拝んでいます。開眼したのは令和7年5月23日ですが、分け御霊が直接つながったと感じたのは、令和7年7月11日です。ここは60座でした。この間、わたしがこれまで数々経験してきている神秘体験の中でもたいへん凄いとしかいいようのない神秘体験がありました。

紀州高野山横笛の会DMMオンラインサロンのライブラリに「「宝珠の願い」として連載記事を載せておりますので、関心のある方はよかったら会員になって読んでください。

令和7年8月31日に弁才天秘法は100座結願となりました。

そして、嶽の弁才天の分け御霊である宇賀弁才天像をおまつりするわたしの仏間には緑ターラ尊が上がってこられました。

もともと光明皇后をモデルとする十一面観音さまとご縁の金剛界大日如来さまがいらっしゃる場です。

女神の競演という形でとても華やかになりました。

ここは私の持仏間のような装いですが、少しずつ、ご祈祷もできるように整えていけたらと思っています。

おまけのお話

令和7年9月12日のこと。覚鑁上人との霊的出会いがありました。ふしぎなことに、覚鑁上人を前に拝ませていただくと、たいへん清々しい気持ちになりました。覚鑁上人は、沈黙の中で拝まれ、沈黙の中で語られた稀有な高僧です。

このご縁はいったい何を語るのか、これから考えていきたいと思います。こうして毎日毎日、わたしは神秘的な体験をさせていただくことになっています。ありがたいですが、ときにしんどかったり重かったりもします。それでもこれが修行なんだと納得できます。

この道に入った以上、生きている間はこのように進んでいくのは自明の理でしょう。人生は三つの尊いことがあります。

ひとつは人間として生まれることです。

さらに悟りを得たいという願望をもつことです。

最後に、聖者や賢者とまじわることです。

人間として生まれる確率はそれほど多くない。そして身体をもって魂を向上させるために生きられる時間もまた限られている。快楽ではなく無上のよろこびを感得することが魂の向上につながります。

その志を持つことが古今東西、ほんとうに尊いことです。

覚鑁上人と交えさせていただいたことも三つ目の僥倖にあてはまります。