はじめに

はじめに なぜ僧侶になったのか
わたしはいま、密教寺院の住職ですが、寺院の生まれではありません。
女性としての人生を歩んでいながら、なぜ高野山で僧侶になったのか、これからお話したいと思います。
わたしは大阪市で瀕死の状態で生まれ、生まれてから息を吹き返し、3歳からは兵庫県姫路市で育ちました。
子どものころは具体的には書くことはできないまでも、抑圧が大きな環境で育ったように思います。
誰にも打ち明けられないことを胸に抱いたまま、それでも衣食住には不自由することなく、生まれたときとはまったく違って活発な少女に成長することができました。試練を与えられながら守られてきたのは今と同じでした。
10代は、とくに中学時代には、いまでもお付き合いのある恩師の影響でスポーツに打ち込みました。
そんな私の実際は、いまになってようやく自覚できること「とくに自然界から声なき声がきこえたり」「人の心のなかがわかったり」「ときどき現実にはないはずのものがみえたり」ということもしばしばでした。
そのほか、急に身体が重くなったり、なにが悲しいというわけでもないのに一人で泣いていたり、きゅうに外出しにくくなったりというようなこともときどきありました。
ところで、わたしはもともとひとつのことを追究したり調べたりするのが好きでした。
将来はスポーツの研究者になろうと、体育系の大学に進学しましたが、運悪く、坐骨神経痛になりそれが治らず、大学一回生でマラソン競技を断念することになりました。趣味でランニングは続けていましたが、坐骨神経痛の古傷は20代後半まで続きましたね。
編集ライターになる
しばらく実家に戻っていましたが、22歳になる年、東京に単身出て、編集ライターの仕事をはじめました。
出版界というのは、当時、馬の目を射抜く業界といわれていました。
振り返ってみますと、22歳から25歳までが編集ライターの仕事の第1期でした。当時 馬の目を射抜くと言われた 出版界。産休1年間を経て都会での育児と両立して37歳までこの仕事を続けました。
書籍は自分の名前で出したものも含めて20冊は執筆したでしょうか。その他雑誌連載など様々な仕事をさせていただき芸能人や中小企業の経営者を含め、本当に色々な方にお会いすることができました。しかしながらフリーランス のしがない女性ライターは特に初期の3年間、編集会議のはずだった飲み会の後、連れ込まれそうになったり、企画を盗まれたりすることなどしばしばでした。
子育ての風景
最近、よく思い出すのは、子育ての風景。とくに長女のときは東京でのワンオペ育児の風景です。24歳のとき、一緒にいた相手の子どもを堕胎し男は出ていきました。生んで育てようと思っていたので、堕胎が許される四カ月の手前までおなかで育てました。実際に赤ちゃんが育ってゆく感覚を持っていましたので、相手が出て行ってからも堕胎はたいへん迷いました。それから夢にもよく出てきました。
25歳でそのときお付き合いをしていた方と制度上の結婚をしました。26歳で長女を出産して、子育てを始めましたが、一日中赤ちゃんとだけ向き合う生活は苦しみの多いものでした。
赤ちゃんに合わせた規則正しい生活は、しなければ、赤ちゃんが命を繋げないことに満ち溢れています。少し大きくなってベビーカーで外に連れ出せるようになってからは、四季折々の楽しい散歩の風景が心に残っています。また、私も若いママだったので、娘とベビースイミングに通ったりして、一週間のその時間がとても楽しいものであったりしました。
子どもはとてもかわいかったのですが、子育てはあまりに大変すぎて、けっこう夜になると泣いていましたね。娘は「夜、泣かないくすり」といって紙でつくったお薬を渡してくれたりしました。たいへんですが一生懸命に子育てをしました。娘は、母の日や誕生日にはかならずお手紙をくれたりする優しい子に育っていきました。
息子の健康問題
娘の誕生から二人目の子どもが生まれるまで10年。ようやく本格的に出版業界で仕事ができてきたときでした。わたしは35歳、妊娠がわかると同時に体調を崩してしまいました。
仕事を休み、出産に向けて体調管理に集中することになりました。息子は無事に生まれましたが、身体が弱くよく風邪をひいたり、またアトピー性皮膚炎でした。東日本大震災で福島原子力発電所が爆発したとき、わりと首都圏では多くの子どもがそんな症状を起こしたのですが、鼻血をたくさん出すことが年間を通してよくありました。血液検査の結果は大丈夫だったのですが、わたしはしばらく生きた心地がせず、この子をと首都圏ではない水と空気のよい場所で育てたいと痛切に思いました。
子どもの体調についてかなり「心配」をしていた私とそれほどでもない元夫との間で長年の行き違いが重なり離婚を決めました。心配は心を配ること。心配しすぎることが続けば、心が細くなっていってしまいます。つらさをわかちあえることができればまた違ったのかもしれませんが、温度差があまりに違うと、うまくいきません。
そのほかにも、東京をはじめとした首都圏でやるべきことはやった気がしていたので、代表理事をつとめていたNPOの仕事を一年かけてさまざまな人に振りわけてお願いし、書類上はわたしが代表理事のままで、高野山に移住することになりました。
このときの経過は振り返ればかなりスムーズでした。荷物の梱包も少しずつ行っていき、3月30日には小学二年生の息子をつれて、自分でつくった家庭を自分の意思で出ました。高野山へ向かうケーブルでは、涙が出ました。なにか懐かしい場所に戻ってきていたような気がしていたのです。
弘法大師のPRをする!
高野山での仕事は、地域づくりの支援であり、わたしの担当は「高野ブランド創出事業」。弘法大師の文化の掘り起こしと発信がおもな任務となります。わたしの編集ライターとしての経験やNPO法人を運営した実績などが生きる仕事だと思って張り切っていました。しかしながら、類似の業種だと言っても過疎化が進む仏教のまち・高野山はかなり特殊で、それまでの経験がそのまま生きるわけではないなと早いうちから気づきました。
またそれよりも、高野山の波動の違いによる大きな変化、最初に住んだ家のすぐそばの高野山大門のまわりに無数の光が待っている写真を写してからというもの、わたしの体調は急変してしまったのです。知り合いの神主さんが「うつした写真をすべて削除する」ことを進めてくださり、残念な気持ちもあったのですが、パソコンからもSDカードからも抹消しました。たくさんの御魂がうつっていたのです。
わたしは体調不良でしたが、息子はとても元気で、高野山の自然をたのしんでいました。高野山小学校に転入し、友だちもつくって少年野球のクラブにも入りました。持病のアトピーもそれほどひどくなく、わたしは安心しました。神主さんが「お母さんの心が落ち着いてきからだろうな」とつぶやいておられました。その春はたいへん冷えていて、四月の末になっても0度という気温の日もありました。わたしの下半身は冷え、出血が止まらなかったのです。
それにしても不思議なことです。
わたしは貧血状態になり、大学の階段をのぼるのさえ、息苦しくなっていましたが、ぎりぎりになると出血が止まり、少し元気になるとまた出血ということを夏ごろまでだらだらと繰り返していました。
900mの高度の土地に住んだこともなければ、冬は積雪する寒冷地に住んだこともありません。わたしはいつも便利な都市で生活してきていました。
そのときわたしは45歳になるところでした。いわゆる更年期に入ったのだということを自覚しました。身体中の血液がいれかわり、浄化されているようにも感じました。高野山の漢方薬を飲みながら、少しずつ養生していました。
俗名で書いた最後の単行本
仕事は、『お大師さまの息』(発行:高野町)という本を移住二年目の春に上梓したのですが、一年目はそのための取材や編集作業を進めていました。
仕事自体は順調で、新聞記事やテレビに取り上げていただいたりすることも何回かありました。
自然の中での生活は、慣れてくると快適で、とくに夏に涼しいのが気に入っていました。
大学院での勉強もたのしく進めていきました。密教学ですので、一年目は密教の基礎科目などを重点的に履修しました。二年目は修士論文にとりかかることになりますが、僧侶科目も受講することになりました。さらに二年目には金剛峯寺で得度をし、高野山大学の道場で受戒をし、修行階梯も履修することになりました。
わたし、お坊さんになるの???
修行のはじまり
僧侶になるには師僧が必要です。師僧になってくださった方とは、得度の3カ月前にじっくりと面談に入らせていただきました。
「お寺と仏縁を結びなさい」と言ってくださり、さらに得度の後には、「できるだけ毎日朝勤行にきなさい」とおっしゃったんです。これがお坊さんへのはじまりですね。
僧名を妙泉と授かったのが5月1日で、5月5日からわたしは朝の修行に通うことにしました。これも、息子の朝の支度の時間があるから行けないと思っていたのですが、5月5日むっくりと起き上がってなにかに突き動かされるようにご修行に出ていました。
そこから朝一時間ほどの修行を1000日間は続けたのです。
その間に、お経が骨肉となってしまったのですね。途中には「わたし、お経に依存しているなあ」と思った日もありました。
それでもお経をお唱えするのはなんだか楽しくて、毎朝の修行が自然な形で積み重なっていきました。師僧は「毎日毎日がんばりますね。戦後の焼け野原はら日本がなぜ立ち直ったかわかる気がしますよ」と言ってくださいました。
仲間たち
なぜ僧侶になろうと思ったかなのですが、それは高野山大学に入学してから出会った学友たちの影響が大きいんです。社会人で早期退職してお坊さんを目指す人や私費で留学してきた人などいろいろな仲間がいました。それぞれ師僧は違いましたが、同期ということでお互いに絆を感じていました。
その仲間たちは高野山内で下宿していたのですが、しょっちゅう、わたしの大門の家に来て、みんなでご法楽をした後、鍋パーティーをするのが日課でした。
わたしは役場からの委託の仕事をもっていたので、帰りが遅い日もありましたが、そんなときは誰かがいて夕食のしたくがしてありました。小学生の息子も帰ってきてみんなと一緒に夕食をいただくのが常でした。
母と二人で移住してきたのが、いきなり大家族になったようで息子はどんな気持ちだったでしょう。息子は、よく野球をしよく食べてお山で健康になっていきました。