うまくいかないことは、一旦、そのままおいておく
発心したら菩薩に
発心というのはなにか。
まっすぐな心(直心)
ねんごろな心(深心)
おおいなるあわれみの心(大悲心)
この3つで、生きとし生けるものの苦しみをなくすよう願います。
ダライ・ラマ法王は、発心したそのときに、菩薩の位に達するとおっしゃっています。
それは、過去現在未来が同じ場所にあり、たとえ菩薩の境地がそのとき遠いところにあっても
はっきりと目指したとき(発心したとき)
すでに菩薩の位にいる、ということだと思います。
真言宗の観法と禅定
真言宗の修法は、ご本尊との入我我入(一体となること)をめざします。
それは一朝一夕ではいきませんから、段階的に修養していくことが大切です。
修法も段階的に進んでいきます。
「毎日、一座は必ず修法を行うべき」という言説は、ここに根差しています。
ならば、なぜ毎日、修法をするのでしょう。修法のなかで大切なのは瞑想です。
瞑想は、サマーディ。六波羅蜜のなかでいうと禅定です。
真言宗は仏教です。仏教は仏陀の教え。仏陀は戒律・禅定・智慧をおさめて解脱にいたりました。
戒律と智慧の間にある禅定は、ドャナー。ヨーガ、サマーディも同義。
これは、曹洞宗の道元禅師がおっしゃった曹洞禅とはいったん分けて考えていきます。
道元禅師の、禅こそが仏法であるという、ある種はげしい考え方は、もちろん開祖仏陀の、ルンゲスリや霊鷲山での禅定・瞑想にも通じるものがあります。仏陀は覚醒後も毎日座禅を修され、弟子にもすすめられています。
ここで分けて考えるとは、
つまり中国で成長した禅と、まずは仏陀の禅定とはわけて考えていくということです。
祖師・弘法大師の禅定は、仏陀のそれに近いもので、さらに弘法大師自身の創意工夫が反映されていると思っています。
仏教の実践には、どのような時代でも、禅定をぬきにして成りたちません。
どのような禅定にしても、最終的な到達地点は同様の場所であるかもしれません。
それにしても、いまのわたしに必要なことを、仏陀も弘法大師も、「しっかり考え実践せよ」と
具体的な課題として与えてくださっています。今生どこまでいけるか、なのですね。