弘法大師旧跡 三石不動尊について

弘法大師と三石不動の地

三石不動尊は、弘法大師が21歳のときご修行なされた御瀧が信仰の中心です。

弘法大師はまだ出家していない頃、この場所で不動存在に出会われたと伝わります。

山中で瞑想されていたときに、手水がなかったので、逆さに生えていた竹を地面にさしたところ

聖水があふれでたという伝説があります。それが現在の三石山不動瀧です。

現在の金剛生駒紀泉国定公園内にあります。

古くは「不動堂」と称されていましたが、江戸時代には「大師堂」となりました。

古い神域に建立された

土地に伝わる一説には、この御瀧は、弘法大師だけでなく、あの行基菩薩やそして役行者もご修行した場所だったのだとか。そして長い歴史のなか、明治維新をへて、神仏分離の折には打撃を受けました。伽藍はすべてがなくなってしまいましたが、それからさらに月日が流れた昭和10年には現在の庫裏(弘法大師堂・大悲殿)が建立されました。

建立したのは全燿法尼(明治15年生)。

丹生家出身の全燿法尼は、拝殿を建立してから高野山に修行に行っています。

時代が違うとはいえ、わたしが僧侶資格をとってから、寺院の住職になったのとは逆で、庫裏を建立した後に資格取得に向かわれたわけです。

その庫裏が令和7年に建立90周年となるわけです。

昭和10年に高野山大師教会の支部、山田教会として船出をしたんのが昭和の復興になります。その後全燿師は人々の相談を聴きながら拝み続けるかたわら、こつこつと高野山真言宗のご修行を続けられたのでしょう、昭和16年に息子さんとともに伝法灌頂を受了なさっています。全燿師60歳のときですね。

全燿師は丹生家の分家の出身ということもあり、さらに信仰の御瀧の近くでお育ちになったことから、若いときから拝むことに秀でておられたのでしょう。御瀧は神様なので、神の行をなされていたかもしれません。仏具の変遷をみてみると、やはり全燿師のころは神式が強い供養壇。

仏具もすてきなものがいくつも残っていますが、いまわたしが使っている真言宗の密壇を入れたのは前住職で、つまり平成8年ごろです。それまでは神式の色濃い壇が基本の壇としてあり、そのほかには木造の机などを活用して修法をされていたと思われます。

全燿師の息子さんは僧侶ですが易者でもあり、名づけや方位などの占いを主としてなさっていたようです。三石不動尊には、このお坊様から名前をつけてもらったという方がいまでもよく来られます。

全燿師が昭和31年に遷化されてから、輪橋が流されたり、御瀧周辺の土砂が台風で崩落するなどいろいろなことがあったということですが、前述の易者の息子さん、その息子さんと昭和の復興から3代続いてきていました。

わたしが入る直前の住職さんの代で、御瀧からの取水場も整備され、御年も89歳になるまで頑張ってくださっていましたが、後継者がいないことなどで継続が無理とお感じになられて、廃寺手続きをとられました。平成31年2月のことです。

それから9カ月後の令和元年11月に、わたしははじめてこの寺院に呼び寄せられるようにしてまいりました。

令和の復興

令和元年にこの寺院に来て、年明けには前住職と再建へ向けての話をして、令和2年2月24日に宗教団体としてのスタート、さらに同年9月にはふたたび高野山真言宗の所属となりました。

宗教法人格の取得には、3年間の団体としての活動実績を所轄の地方自治体に提出することが必要になります。

三石不動尊が宗教法人として認可されたのは令和5年7月です。宗教法人となると同時に「三石不動尊」と名前を変更しました。

令和2年から令和5年までの怒涛の三年間は、筆舌に尽くしがたい日々でした。

ときはコロナ禍がはじまったころ、そして、いまだからいえますが、寺院復興にかかるときのわたしの個人の通帳の残高は10万円ほどだったのです。

※こちらの記事は、令和7年5月3日に発行予定の書籍に掲載予定の文章となります。ブログに少しずつ掲載していきます。