高野山時報(令和6年1月1日号)

弘法大師旧跡 宗教法人設立秘話
三石不動尊 住職
日本ペンクラブ国際委員
佐藤妙泉
 


 
 令和5年1月10日、16時。地元の信者さまがご祈祷に来られていた。ご先祖のご供
養や葬送にまつわるご家族の人間関係のお悩みで、よい方向に向かうためのご祈願を行っ
ていたのだ。当不動尊は下に弘法大師堂、上にご神体である御瀧があり、神仏習合時代の
祈祷寺の様相を呈する。
弘法大師堂でのご祈祷の際には、ご本尊の不動明王、聖観音、弘法大師と新たに私の代
で勧請した地蔵菩薩と弁才天2尊を含めた5尊がおわし、必要な尊格に降りてきていただ
くことで、御瀧を拝しての現世利益のご祈祷を行っている。昭和30年くらいまでは、と
くに消化器系統の病気を癒すご祈祷を当時の住職(尼僧)が行ってきたと聞く。


お出ましになられたお大師さま


さて1月10日のご祈祷時、金光明最勝王経をお唱えしているときのことであった。突
如ガラガラと扉の開く音がして、どなたかが入ってこられた。17時にお越しの方かなと
一瞬思ったが、本堂の隣の談話スペースに座られたその方が、お経をご一緒にお唱えされ
たのだ。驚いたのは、それはきれいな男性のお声での流暢なお経で、私がお唱えする少し
だけ先を発声なさった。たいへん驚いたがご祈祷中。最勝王経が終わって観音経に入ると
、ふたたび立ち上がって退出なさった。ご祈祷が終わった後、受者さんに「どなたかいら
してましたよね」と開口一番問うてしまった私だが、信者さまは「誰も来ていません」と
きっぱり。
ああ、またしても私だけが聴こえたものだったかと思ったが、僧侶になって以来、もっ
ともはっきりした形での神秘体験であった。
後日、境内整備をお願いしている信者さんに一部始終をお話し、「それは若い時代のお
大師さんではないか」との彼の言葉に、おうむ返しにそうに違いないと私は即答した。ま
た、別の遠方の信者さんが「きのう、三石不動尊のお堂に向かって、菅笠を被って背負子
の旅のお坊さんがお経をお唱えされていたのがわかった」との知らせがあり、修行大師が
おみえになったことを確信した。
実はその頃、私はとても落ち込んでいた。生きていればいろんなことがあるが、とても
大切にしてきたものを静かな暴力により喪う経験をしたのだ。不意打ちで切りつけられる
ような悪意に大変傷つき、痛みが大きかった。お大師さんが来てくださった理由には、弘
法大師旧跡をふたたび宗教法人にするため動き始めたことを喜んでくださっているのはも
ちろん、わたしが悲しんでいるのをみかねて新たな力を与えに来てくださったに違いなか
った。
お大師さまとご一緒に読経させていただいたので、とにかく祖師が喜んでくださること
をやり遂げよう、そんな一心で立ち上がった。2月には寺院規則を作成して法人設立準備
総会を開催した。3月には必要書類を本山に提出。5月10日本山認証。6月15日和歌
山県庁認証。7月28日法務局にて設立登記完了と必要な手続きが続いた。


法務局での不思議な邂逅


灼熱の夏季だった。そんな中不思議なできごとがまたあった。
国の機関である法務局で手続き中のことだ。その日、私は朝の3時に起きて祈りを捧げ
てから、和歌山市にある法務局に向かった。法務局では相談や提出は一人30分と決まっ
ている。行政書士などの専門家にお願いせず書類を作ったわけだが、担当官はむずかしい

お顔をされて、「まあ何度か通えば成立するんじゃないですか」とそっけなくおっしゃっ
た。30分が過ぎたから、また予約を取り直して別な日にという。まったく予定していた
手続きが終わっていなかった。窓口で、法務を休んで一日仕事で来ていること、何度かは
通うつもりではあるが、今日の仕事は終わらせたいこと、今日はもう一コマの相談時間が
ほしいこと、などを懇願した。すると午後の一コマにキャンセルが出たとのことで、再び
予約がとれてほっとした。
午後にふたたび法務局に行くと、担当官の様子が朝とまったく違っておかしい。「じつ
は妙泉さんと話してから、思い出したことがあって…じつは自分は子どものころ四国の善
通寺にいたことがあったんだよ」…「子どもの頃、身体が弱くて親が保養のために出した
のであろうが…」あっけにとられる私になおも行政官さんは「いままで自分のためにしか
生きてこなかった。だからこのご縁では自分は妙泉さんを手伝わなければならないんだと
思う」。
それから彼は、次の回にもってくる書類や印鑑などについてカラーペンなども用いて、
事細かに説明してくださった。180度対応が変わったことについて、これもお大師さま
の介在に違いない。晴れて7月26日に書類が受理となった日は、とびきり暑い日ではあ
ったが、極上のリラクゼーションとよべる境地に舞った。廃寺から団体設立へ、そして非
法人を経て宗教法人設立へ。三年間の日々のできごとが時折光りながらくるくると周囲を
舞う。たくさんの方の顔、顔、顔…。がんばってきてよかったなぁ。灼熱の風に吹かれて
、お大師さんがおおきな柔らかいお手で、私の頭を撫でてくださったのがわかった。
昨今、新しい宗教法人の設立は難しいとされている。しかしこのスムーズな行程を見返
すとき、この寺院との出会いの妙から、わたしは祖師からこの仕事を任されていたんだと
確信する。とくに県庁認証日は6月15日と青葉祭の日である。わたしはその日、東京の
日本ペンクラブ総会に出席し、異分野の方々から祝っていただいた。文筆家でもあった祖
師が、ここにもお出ましになられたように感じた。令和5年は、日本ペンクラブ国際委員
に就任することになり、こちらも少しでもお手伝いができればと考えている。
さらに、本山認証日は令和5年旧正御影供の5月10日であった。私はその日、ゆかり
ある兵庫・但馬の地にいた。この符号を見るにつけても、これからもこの仕事を続けてい
かなければならないと思う。ここまできたのも、頼りは自分自身の信念だけなのである。
おそらくこれからも、たとえどんなに共感支援の輪が広がったとしても、自らの信念が柱
になろう。


環境変化、お瀧が開いた


6月4日(2~3日に動いたと思われる)に発見したことには、三石不動瀧で土砂が流
され、埋もれていた座壺が出現するという奇跡もあった。
お盆の多忙を終えて、8~9月には建物(三石不動尊本堂)の測量および登記も済ませ
た。私は根が単純なので、新しい宗教法人設立は、みんな喜んでくれるだろうと思ってい
たら、現実にはそうでもなく、圧力じみた嫌がらせもなくはなかった。疲れも出たのだろ
う、5月~7月はひどい皮膚症状に悩まされたり、9月中は燃え尽き症候群のような状態
が続いたりなど試練もあったが、もみじが色づき始めると元通りの自分に戻ってこの原稿
を書いている。
廃寺復興というこの仕事を通じて、本当にさまざまなものを私は祖師から頂いた。伝法
灌頂を終えてすぐに出会ったお寺。実務経験は近隣の寺と伯父の寺での月参り手伝いくら
い。とちゅう、ここが神仏習合の祈祷寺だということがわかり、目標も転換し、自分自身
も祈祷僧をめざした。信者さまのご相談をお聞きしてご神仏に誓願をお届けする、繰り返
しそれをさせていただき、少しずつ経験が蓄積されていった。東京でライター時代の私に
も、また高野ブランド事業従事時の私にも、思いも及ばない展開であったが、ご神仏の指

南により5年間、僧侶のお仕事だけをして息子と二人、生きてくることができたのである
。そして、住職として、新たに寺院に息を吹き込むことができた。このような稀有なる僥
倖に巡り合えたことは、それ自体が奇跡でありかつ必然と思える。
 落ち着いた今(11月)は、またこんなふうに思う。まずは高野山にのぼって来て師匠
に巡り合えたことに感謝。僧侶にしてくださった伝法灌頂の伝授阿闍梨さまに感謝。そし
て出会ったばかりの私に「これはお大師さまのお引き合わせだ」と言ってお寺を任せてく
ださった旧不動寺前住職に感謝。たいへんすばらしい仏縁に引き合わせてくださったのは
、弘法大師その人である。
末尾になりましたが、有縁のすべての皆さまに感謝と敬意を捧げます。これからも変わ
らず精進いたしますので、よろしくお願い申し上げます。合掌