高野山時報(令和4年1月1日号)

朱色の三石山不動瀧


佐藤妙泉


三石山不動寺は、お大師さまが21歳のとき草庵を結んでご修行された場所と伝えられ
ています。実際には、ご修行の場所は現在の拝殿から500mほど険しい参道を上ったと
ころにあり、それは約12mの御瀧です。お大師さまがご修行中に祈りだされた手水が大
きく流れて瀧になり、さらに不動明王を感得されました。おそらく当時はその尊格ははっ
きりしたものではなかったかもしれませんが、「水から火」その存在の感得は現在でも時
折この寺で起こります。
 三石不動瀧(御瀧大明神)とはどのような性格の尊格でしょうか。『紀伊続風土記』に
おいて三石山不動寺の前身とされる江戸時代の大師堂に祀られていたものは、明治2年の
廃仏毀釈の影響か残っていませんが、明治15年生まれの先師が、高村光雲の弟子のひと
り、田坂柏雲に依頼していくつもの往復書簡を交わして作仏したご本尊があります。両脇
に童子を従える不動明王立像、聖観音立像、弘法大師坐像がそれです。先師は御瀧にお社
の復元もされていますので、御瀧に尊格を感得されていたはずで、それをもとに御瀧拝殿
としてのご本尊を勧請なさったとすると、この三尊が御瀧にまずおわすと考えることがで
きます。
 聖観音は、すべての観音のもととなる存在、観世音菩薩でもありますから、この御瀧は
不動瀧であると同時に妙音瀧であることがわかります。実際に水の音が楽器の音に聞こえ
るという方も少なくありません。
一般的に不動と観音は背中合わせで一体となる尊格とされます。どっしりと動かぬ不動
存在が衆生を救済するため飛び回る観音を支えているのです。そして、不動と観音の並び
は密教寺院ならではのものでしょう。
 現在の不動寺の寺名は令和2年9月に高野山真言宗で認証となっていますが、以前の公
式の寺名は同じく高野山真言宗宗教法人山田教会でした。にもかかわらず三石山不動寺と
いう名称が山麓地域にはむかしから残っています。「みついしやま」とよむことから、い
わゆる山号とも少し違うイメージです。地元では「三石不動尊」という言い方をする人も
います。
さらに少なくとも昭和7年の復興の折から、「政伊志不動尊」という別名が記録されて
います。「政伊志」とはどのような意味だろうかと考え続けていますが、はっきりとした
回答はありません。神仏分離前、山麓の「政所」は紀の川の河北河南両方に計8か所あっ
たとされますから、そのような意味も含まれるかとも推測します。はっきりとしたことは
わかりません。ただ、この名前を何らかで使っていく意味も感じ、毎年8月の施餓鬼供養
の際、「政伊志不動尊御施餓鬼法会」として厳修しています。
三石山不動瀧のある地域(旧山田村内6村)は、縄文時代から人の住んだ気配のある場
所です。また、京都、大阪、高野山とも街道で直接繋がっています。古代には、五穀豊穣
といった公の益を祈る祭祀がおこなわれていた場所がこの三石山不動瀧だったのかもしれ
ません。また、中世にはこの地が古戦場跡であったとする記録もあります。令和2年4月
の入寺のとき、私には超自然的な感覚がふたつあり、それはふと血のにおいがしたこと、
そして潮の香とも関係するのか海難事故の影が残ることでしたが、前者は土地がもつ中世
の記憶だったことがわかりました。住職となったあとは、日々修法を行い、また訪れる人
々の話を傾聴する中、思いを残す魂が集まる場所なのだという実感があり、この寺におい
てもっとも重要な日である5月3日の山ノ神の日には慰霊祭を行うこととしました。
令和2年には、とくに昭和13年6月15日という日に、橋本市の尋常小学校高等科修
学旅行生が列車事故で犠牲になった30の御霊に向けて思いを届けました。今後も含め、
不慮の事故に遭った魂のために祈る日としたいと考えています。先師や地域の伝承による
とこの御瀧は、魂を丸く包みこみ成仏させてくれる、真に密教的な心優しい御瀧だという

ことです。
 この御瀧に、令和3年8月中旬以降、朱みの強い岩盤の洞に石仏のようなものが少しず
つ出現してきました。はっきりと確認したのは10月5日で、この後集中的に拝み、同
18日の観音御縁日に開眼供養を行いました。かつて修行の場所だった御瀧場は台風の直
撃など幾度もの受難を経て現在は行場にはなっていませんが、仏神のお力は変わらず確か
に存在していることが理解できたできごとでした。出現した場所は、先師らが昭和7年に
掘り出した不動明王(御瀧の不動さん=現在は境内の遥拝所に鎮座)をお祀りしたのと同
じ場所でした。令和3年10月18日、三石山不動寺に祀られる不動明王はこれで4体(
拝殿本尊、波切不動尊、御瀧遥拝所、御瀧不動)となりました。