高野山時報(令和3年1月1日号)

令和の廃寺復興顛末

 佐藤妙泉

 令和元年の秋。インターネット上で「もと高野山真言宗の廃寺」という寺の写真を見て「廃寺なのにこんなにきれいなの?」と疑問をもった。私は在家出身で、仕事や子育てをした後、四四歳から高野山大学大学院で学び、藤田光寛師を師僧に高野山で修行をした。令和元年一一月、飛鷹全隆師より伝法灌頂を受けて間もない頃、三石山不動寺との出会いがあった。高野山麓の橋本市の中でも、初めて訪れる信者さまが道に迷われることもあるくらい、わかりやすい場所ではない。山の中腹にご神体である御瀧がある。平成三一年、加藤栄俊師のもと大聖院で護摩加行を修した際、瀧の音が響き、あたかも盤石の上に座っている様に辺りが変容したことを思い出す。私がはじめて不動寺に到着したときは、紅葉の最後の時期だった。おまいりすると同時に写真を撮ったら、美しい霊光が映り込んだ。後に聞くところによるとここは伊都橋本随一の紅葉のスポットだというので驚いた。花木が美しければ美しいほど、その根の奥深くには浄土がある。寺院由緒によると延暦一三年、弘法大師が二一歳のとき修行中、手水を求めて杖立て出した水が瀧と流れ、不動明王を感得したと伝えられる。江戸時代は不動堂ではなく、葛城神域内の大師堂として認知され、行者が修行しながら宿泊する場所として存在した。また、明治二年には神仏分離の影響を受け大きく動いたが昭和初期には寺院復興の兆しが起こり、昭和九年、丹生家出身の米本全燿住職が高野山大師教会手水瀧支部山田教会として寺格を得ている。全燿法尼の師僧は当時大師教会に奉職の山内住職であった東孝範師。山田教会は昭和二七年宗教法人に。昭和三一年に全燿法尼が遷化の後、寺院をとりまく自然環境が大きく変容したが、子孫によって寺院が守られてきた。平成三一年二月に後継者不在により惜しくも廃寺となっていた。令和元年一二月二八日不動縁日に、前住職米本暁觀師より「四月一日から佐藤妙泉が代表者に」との申し出を受けた。

 四月から不動寺で法務を始めたが、コロナ禍に重なり、人を集めての催しはできないし、思いもしなかった苦労に悩まされる日もあった。本山の手続きではたくさんの方に一緒に考えていただいたが、結論として「廃寺復興」というカテゴリーはなく、歴史ある寺の復興であっても「新寺建立」とされ、分厚い書類と格闘することが必須となった。「住職交代だけなら書類一枚なのに」と何人もの人から言われた。廃寺になった後、約一年で設立総会となったわけだが、こんなに早く復興する廃寺は例がないという。令和元年二月二三日の設立総会まではスムーズに進んだが、不動寺近隣寺院との関係構築が大きな課題だった。コロナ禍で所属宗務支所や本山の会議も延期される中、新寺建立申請費の準備、提出書類が上がったのが同時で六月三〇日だった。令和元年の密教術による運勢的なことでは前半のうちに重要事項を終わらせるのがよいと出ていたのでこの点で滑り込みセーフとなったわけだ。九月一日に任命書をそれぞれの役員や檀信徒さんに手渡すことができた。以上が不動寺復興の経緯である。檀家のない寺なので、寺格を戻してこれからどんな寺にするかが課題であるが、理屈を超えたところで動いていたこの間の出来事を振り返るにはまだ早く、歩みを止めるべきではない。課題も多い。一つは、四月から毎月二八日に護摩供を拝殿の前の屋外で修している。昭和初期の住職、全燿法尼は不動堂を建築したいと願い、計画は整っていたものの実現しなかった。この誓願を令和の今、不動尊堂を護摩堂と読みかえ叶えていくことが最重要事項と考えている。屋外での護摩供のときには、雲海がご神体である御瀧の方角へ美しく流れ、上空で大金剛輪を描く。このご利益を一人でも多くの方に届けたいと誓願している。

さて私は、不動寺への入寺とときを同じくして毎月一回、京都へ修行に出かけている。高野山から京都を線でつないだとき、その線状に観心寺や海龍王寺(真言律宗)はある。不動寺もまたそうで、京都と高野山を往復した大師が、移動の途中、お休みになったであろう場所はいくつか考えられる。草創期の大師伝にとって重要な証言も地域にあり、令和三年はさらに寺伝を調査すると同時に、「拝め、さぁ拝め」と仏神により日々、促される修行道場に精進しながら、名実ともの復興に漕ぎつけたい。金剛生駒紀泉国定公園内に位置し、一般の方々にとっては湧き水のある憩いの場所ともなっている不動寺。どうか、多くの密教僧の方々にご参拝いただき、祈祷寺院復興に向けてご指導ご鞭撻ご助力を賜りたく、伏してお願いをいたしつつ、新春のご挨拶とさせていただきたい。