週刊佛教タイムス 令和6年1月1日第3016号

  • 週刊佛教タイムスの記者さんが書かれた記事を転載します。

新春レポート 廃寺を復興させた女性僧侶

約1500年前の仏教伝来後、最初の出家者は女性だった。その意味で、日本仏教の歴史は女性から始まったとも言える。現代の日本社会の各分野で男女共同参画が少しずつ進む中、仏教界でも女性僧侶が要職に就くケースも出てきている。こうした存在が閉塞感が漂う社会の一隅を照らす光明になるのか。女性教師が活動する現場をレポートするとともに、各宗派の女性教師をめぐる現状や課題をまとめた。

和歌山県橋本市 高野山真言宗三石不動尊 佐藤妙泉住職

  在家から48歳で僧侶に

    修法の力を実感する毎日 口伝えで評判、信者増え

       地域のコミュニティとして機能

高野山麓の町・和歌山県橋本市の北部山間(やまあい)にある高野山真言宗三石不動尊は、「弘法大師21歳のご修行の地」と伝わる祈祷寺院。後継者不在から5年程前に法人解散手続きを終え廃寺となっていたが、令和5年7月に新寺建立の形で法人格を再び取得した。異例となる古刹復興を成し遂げたのは、在家出身の佐藤妙泉住職(52)。人生の深い挫折を経て、44歳の時に高野山に移住してきた異色の女性求道者だ。

 昭和9年建立の本堂に、佐藤住職の力強い読経が響く。本尊壇の中央には不動明王を奉祀し、右に弘法大師と弁才天、左に地蔵菩薩と観音菩薩を奉安。佐藤住職は、「相談者の願いや悩み、その人の当日の状態に応じ、祈祷の仕方は毎回変わる。一期一会、1回として同じ修法はない」と言い切る。

 同寺の前身は宗教法人山田教会。前住職の祖母が昭和8年、明治維新の廃仏毀釈で衰退した大師堂・不動堂の旧跡に設立した。農業の傍ら祖母・父から続く第3世の法燈を継承した前住職(男性)だったが、89歳を迎えた平成31年2月にやむなく廃寺とした。

 それから10カ月後の令和元年11月下旬、佐藤住職は「友人の山伏がSNSに〝橋本の古刹が無住になっている〟と書き込んでいたのを読んで、お参りに来た」。約3週間前に、高野山で伝法灌頂を受けたばかりだった。

 前住職に即連絡し、後日面会。「お大師さまのお引き合わせや。ここを好きに使っていい」と喜んでくれた前住職に、「『宗教法人格を再び取得して復興する』と約束した」。

高野山移住が転機に

 三姉妹の長女として兵庫県姫路市で成長した佐藤住職は、中学・高校と長距離走に打ち込み、マラソンランナーを夢見て九州の大学に進学。体育学部で学びながら猛練習に明け暮れたが、致命的なケガで挫折。2年で中退し、実家に戻った。

 両親の不和や母親のうつ病、自身の目標喪失などが重なり、鬱屈した日々を送っていたが、23歳の時に東京に出て1年制のエディター(編集者)スクールに入学。卒業後は雑誌に寄稿したり本を制作したりするルポライターとなった。

 事実婚の破綻後、25歳で結婚し、1年後に長女を出産。36歳で長男を産んだが、「息子は体がとても弱く重度のアトピーで、2年間ほとんど寝ずに看病した。〝この子は生きられないんじゃないか〟といつも不安に苛まれ、気が狂いそうだった」。

 「息子の健康回復を願い、全ての子供たちがそれぞれ持ち前の個性を発揮して生きられる社会になればと思い」当時住んでいた埼玉県和光市で、平成23年(2011)に食育を学び農業を体験するNPO法人「和光・風の里」を設立。親子で楽しむ「田んぼの寺子屋」や安全な食を考える座談会を開くなどした。

 だがその頃、離婚。自活の必要に迫られた。「NPOの活動が国の事業に採択されたが、助成金収入はごく僅か。出版不況もあり、ライターの仕事も減っていた。懸命に仕事を探す中、総務省の地域活性化事業で高野町産業観光課が委託する高野ブランド創出事業の募集を見つけた。高野山の文化を掘り起こしPRする仕事で、これならライターとNPOの経験が活かせると思い、すぐに応募した」

 平成28年4月、44歳で始めた息子との高野山暮らし。高野山大学大学院修士課程にも入学し、真言密教を学び始めた。「高野山では子育て、仕事、勉強と全てをゆっくり進めることができた」。

 大学には40~60代の僧侶希望者で、在家出身の社会人学生が在籍。約10人が毎日集まり、「お経を読む会」を開いていた。「彼らと研鑚を積むうちに、自分も僧侶になりたいと思うようになった」。修士2年生の5月に大学の集団得度式に参加し、修士課程を修了した翌年には山内塔頭で加行。伝法灌頂を受け、48歳で念願の僧侶になった。

法人格再取得へ始動

 教師資格を得たのとほぼ同時の令和元年11月に復興を託された廃寺・山田教会。法人格再取得に向けて、県庁からは「3年間、宗教活動の実績を作る」ことを求められた。「和歌山宗務支所下の近隣10カ寺の印を頂くなどして本山に提出し」、令和2年9月に非法人「三石山不動寺」の住職に就任。檀家ゼロの祈祷寺院であるため毎日SNSで情報を発信し、祈祷の申し込みがあれば全力で応じた。

 やがて口伝えで評判に。地元の葬儀2社の紹介もあり、信者数は200人を超えた。令和5年1月、県に法人復活を相談。寺院規則、役員3人・総代5人・法類寺院(市内5カ寺・高野山2カ寺)、信者名簿等を整えた。「こうした法人復活は珍しいと言われ、県庁も法務局の担当者も親切だった」。青葉まつり当日の6月15日に県庁の審査を通り、7月28日に法務局での手続きを完了。「行政書士に頼まず自力で行った。書類不備で返される度に、担当者が文言や書式のミスを丁寧に教えてくれた。お大師さまのご加護があったとしか思えない奇瑞も少なくなかった」

 活動再開から4年目に入った不動寺の宗教法人名は「三石不動尊」。今では毎月の縁日や年中行事に加え、浴衣祭や紅葉祭、信者発案の音楽会や寺カフェなど数十人規模のイベントを定期開催。境内に湧く不動の瀧(御瀧大明神)の清水を汲みに来る近隣住民も多く、地域のコミュニティとしても機能し始めている。「皆がゆっくりできるように」トイレなども改修した。

 夫の葬儀を頼んだ縁で永代供養も申し込み信者になった女性(83)は、「先生は話しやすくて、何でも教えてくれてね。ここに来てから死ぬのが恐くなくなった」と述懐。佐藤住職は、「最初は心細くて泣いたこともあるが、現在はお大師さまが請来した修法の力を実感する毎日。一日々々を〝明日死んでもいい〟と思って生きている。支えてくれる皆さんのおかげで、今が一番幸せ」と微笑んだ。(山崎)