人は誰でも、魂の片割れという存在が世界のどこかにいるといわれます。
生まれる前の魂はきらきらと輝〈光ですが、それがふたつにわかれてそれぞれ別な場所に生まれてきます。
遠〈離れた場所に生きても、二人は不思議と同じような体験をしたり同じ気持ちを感じたりしているといわれます。
生まれた後、現世で出逢うかそうでないかは、魂の時代に決めてきているとされますが、必ずしも統合されることが目的ではありません。
魂は、それぞれの役割を生ききることがもっとも大切だからです。
ふたごの魂は、現世で出逢ったとしたなら、恋愛関係に進展するケースが多いと言われますが必ずしも添い遂げることや二人が一緒にいることが重要なのではありません。
一緒に生きるのがいい場合は出逢いますし、また出逢っても再び分かれていくこともあります。魂の目的は放たれたこの世界で精一杯に生き成長すること、それだけだからです。
ところで、魂の片割れと思える人との別れを経験したことがありますか。
私はあります。
この切実な生々しい傷跡、癒えたと思ってもふとした拍子にかさふたがはがれて生傷があらわになる、治りにくい傷跡です。本当に激痛に見舞われ、息もできずに、壊れてしまうくらいです。
これを乗り越えられなかったら、果たして生き続けていけたかどうかわかりません。そんな状態のただなかに、高野山に暮らすようになり、横笛神話に出逢いました。
密教の中にも、ふたごの魂をテーマにしたお話があります。
恋人同士だったけれども、添い遂げるには至らなかった二人(横笛と時頼)のものがたり。端的にいうと、それは修行する魂の軌跡です。
別離後、生前は会うこともままならなかったわけですが、互いに相手がどうしているか、心のどこかでいつも気にかけていました。横笛と時頼。
ふたりはそれぞれに仏門に入り修行を続けます。横笛法尼は遷化した後、うぐいすとなって時頼のいる高野山へ飛び来たといわれます。
時頼はそのなきがらを拾って、自ら刻んでいた阿弥陀如来の仏像の胎内におさめました。
これは何を意味しているでしょうか。
阿弥陀聖衆来迎図の中で、阿弥陀如来を囲むたくさんの天女たちはさまざまな楽器を嗚らす飛天として描かれます。
一説に飛天は、仏教が確立する前の原インドで先住民族が信仰していた土着の女神を仏教化したものといわれ、一部、観音となることもあります。
この菩薩たちの中に、横笛を奏でる横笛菩薩もおわします。そう、本来、横笛法尼はこの横笛菩薩がモデルなのです。
菩薩が人間界におりて姿を変えたとき、尼僧のすがたで出現したものです。
魂が阿弥陀如来に連れられて浄土に上っていくとき、周囲では天女たちが美しい音色で楽器を奏でてくれるのをご存じでしょうか。
病気で苦しむ方や、愛する人を失った方にこのお話をしますと、涙の後、安心したお顔をなさることがあります。
ものがたりでは、最終的に横笛の魂は時頼のもとに飛びきて、如来と一体になっていきます。
観音菩薩はその頭上に阿弥陀如来を戴いていますが、密教では観音と阿弥陀は同体とされます。
つまり、観音と阿弥陀はいわばふたごの魂です。
時頼によって、それが一つに統合されるわけです。
観音の浄土は限りなく静かで美しく豊かな水とみどりがいつばいの楽園と映ります。その功徳が拝まれ、阿弥陀如来の胎内におさめられた横笛菩薩の魂は後世まで輝き続けていきます。
高野山に住んで一年後、弘法大師や諸仏の御利益をはっきり信じるようになったころ、私の仏道修行、密教僧としての旅は始まりました。同時期に横笛法尼の供捉も始めました。そのとき、私の中にも、横笛菩薩の魂が呼応して映し出されたように感じました。
そのとき横笛の思いを聴いたような気がしました。
「ほんとうの横笛像を伝えてほしい」。
従来のお話では、横笛は恋に破れた薄幸の女性として描かれています。しかし、当時、普通の娘さんが門跡寺院で出家することなどできたでしょうか。数ある学説の中では、自ら仏門を志し、恋人だった時頼が後を追って出家したという逆の
パターンも伝えられています。私も、さまざま調ぺたり拝んだりした結果、本当の横笛法尼はもっと自立していて時代の最先端をいっていた尼僧さんだったように思っています。
修行は途中下車できない特急列車に乗っているようなところがあり一種のスピード感があります。懐かしんでいる暇さえ、悲しんでいる余裕さえないほどに、魂の片割れとの別れでできた傷や埋められなかった穴は、気づけば癒えていました。有難い経過でした。
信じることは厳しいもの。人でもものごとでもなんでも、信じることを貫くことは並たいていのことではありません。
ちょっとしたことで疑心暗鬼が出てきたり、本当にそうだろうかなど疑いの気持ちが頭をもたげてきます。
時頼は、当時たくさんの求婚があった横笛に嫉妬しておおいに心が苦しく揺れたこともあるといいますから、恋人を心から信じるのも大変なことなわけです。
しかし何事も、そういう煩悩に打ち勝って信じ続けると、苦しいけれども、あるときパッと道が開けてくることがあるようです。
それは、生きとし生けるすべてのものへの慈愛がベースにあって、相手のことを自分のことよりも大切に思えたときに、期せずして自分も救われていくという、「信」と「愛」の道開きです。これが密教の特徴です。また、新しい道を得るためには、長く馴染んだ大切なものを捨て去らなければならないときがあります。相手のことを本当に大事に思うからこそ、一緒にいることが重要なのではなくお互いがお互いの人生をよりよく進むために、別々に生きる選択肢もある、そう思えたとき、寛いだ気持ちになりました。
恋愛や家族について愛情に根差した人間関係の悩みはいくつになっても尽きることがありませんね。
私も親との葛藤、嫁姑問題、子育ての悩みなどなど、いろんな経験をしています。
そんな中で思うのは、私たちが愛情と思ってやっていることって、ほとんどが相手のためじゃなく自分のためなのかなあということ。ちょっと厳しい言い方ですが何かを愛することって、打算でなく掛値なしに出てくることですよね。
人を所有物のように思う自我からの愛ではなく、これからの時代には、もっと軽やかな慈愛を求めたいものです。
いっぽうで、赦していく、手放してい〈。自分の人生から離れたところで相手の幸せをねがう。
阿弥陀如来のもとで再会したとき、横笛と時頼はそんな関係へ昇華していたと思うのです。