令和6年1~2月法務ふりかえり

令和6年の三石不動尊での節分祈祷は、定例お不動さまのご縁日をはさんで、以下のような7日間15座のスケジュールで行いました。

1月27日:外護摩(開闢)

1月28日:お不動さまのご縁日

1月29日 節分祈祷内護摩2座

1月30日 節分祈祷内護摩2座

1月31日 節分祈祷内護摩3座

2月1日 節分祈祷内護摩3座

2月2日 節分祈祷内護摩3座

2月3日 外護摩(結願)参座5名

内外護摩計15座、45名分の護摩札ができました。

節分と立春をこえていくこの時期は、一年で一番、波動が高く強くなる時期で、多くの真言僧は修法に集中していきます。寺院によってやり方はそれぞれだと思います。

わたしのお寺にはまだ、星まつり用のお軸がないのですが、寸前に、真っ白の深雪のなかを金の輪をせおったお不動様が歩いて来られたので、そのお不動さまのお姿を観想して、故・中村公隆先生から伝わった内護摩秘観を修することにしました。毎年だいたい内護摩で拝んでいます。

12月はインド巡礼にでかけたあと、しまい不動、修正会とあっというまに年末年始が過ぎ、その間、外護摩を修することをしていなかったのであるが、なぜか1月27日まで引っ張ってしまいました。

お護摩は修法の中でもたいへん強いもので、状況をいっぺんにひっくり返すことさえあります。だから行じていい時期とそうでない時期もあるといいます。

おそらく、1月はなんらかの理由で、節分前まで引き延ばされましたが、わたしはこれで「節分に一気に力を出しなさい」という意味だというふうに受け取りました。

魔が入った

節分祈祷の直前には、なにものかが魔が差したのでしょうか、御瀧大明神の懐に入ってしまうといった、緊急的によくないできごともありました。入ったことをしばらく知らなかったのですが、節分祈祷の間中、なにか気持ちの悪さがありました。そして、2月1日~2日には「御瀧でなにかが起こった」「御瀧に異変があった」というような声が聴こえてきていました。

2日の修法がすべて終わったあとに、1月27日に御瀧のしめ縄の中に人が入ったことがわかりました。私は愕然としました。

わたしはもちろんここの住職ですが、わたしは御瀧とすでに一体になっています。節分祈祷に集中している間中感じていた気持ちの悪さは、御瀧大明神(神さま)の気持ちのわるさだったのです。

で、残すところ結願の座ひとつとなったところで、事実が明らかになるとは!

ほんとうに生き神様がいらっしゃるのです。じつは1座目の外護摩のときに御瀧に入った者がいたのでした…。なんということ! 御瀧大明神さまは節分祈祷期間中、ずっと気持ちが悪いとおっしゃっていました。

わたしが月1で御瀧での修行をするときには、しめ縄からむこうは素足で歩きます。

石や岩がごろごろとしているので、ともすれば足を傷つけてしまいます。だからいまは私だけで

信者さまは誰も入っていません。そんなところに、土足で入り込んだということは、たいへんな傷跡です。とても残念な気持ちで、でも、自分自身が御瀧大明神なら、住職が仕切りなおせば、と思い、辛かったのですが、翌日の結願に備えました。御瀧は今でも生き神様と本当に再確認したできごとです。

三石不動尊での不動護摩

2月3日は朝から、不動法を修して備えました。信者さんが参座したときには、まさに護摩に入るところから始める方法です。

複数の信者さんが来られたところで、本堂(弘法大師堂)でご法楽を捧げました。

そこから参座をお申込みの方は護摩堂にうつります。

この護摩堂は令和4年4月に当時の信徒総代さんがリフォーム工事を行われてできたもの。以前は昭和初期の古民家(廃屋)でした。聞くところによると、戦争の疎開者が住んでいたこともあるとのことです。

廃屋古民家がリフォームのため壊れていくときに、外法務から戻ったわたしは慌てて、

護摩壇を出して、建物に向けてご祈祷を行いました。

(この護摩壇を作ってくださった方は令和6年3月23日にご逝去なさいました。当時、ご寄進に近い形でつくってくださったのです。この方がいらっしゃらなかったら、護摩師になっていなかった可能性もあります。そして三石不動尊はお護摩を修することでふたたびご神仏が立ち上がってこられた感がありますので、寺院復興もなされなかったかも。その意味ではいまの護摩壇は、さまざまな意味での立役者。)

2月はその他、年忌法要も数件あったり、26日には合同おたきあげ法要も行いました。

横笛の会の展望

また、横笛の会について、専門家経営相談を商工会で行っていただきました。毎年この時期にサポートが受けられて有難いです。

昨年は「相談案件の増加に対応してスムーズに業務が流れるよう」このウェブサイトとオンラインサロンを立ち上げたのでした。それを振り返って、「相談業務もミッションどおり充実してきていますね」ということでした。一歩一歩ですが進んでいることをほかの視点から見ていただくことで、改めて勇気も湧いてきます。私にとって「紀州高野山横笛の会」は高野山へ移住するきっかけとなった「高野ブランド創出事業」から派生した、自分の僧侶の特徴の出自を示す、とても大切な事業です。

これからもチャレンジを積み重ねていきます。お寺の法務との両立ですが、横笛の会のほうは、宗教教育事業として推進していきます。

どうぞ応援いただき、さらにご一緒に楽しんでくださいね。