からゆきさんの慰霊

半年を要した戦犯戦没者慰霊

5月3日の慰霊祭の余波から完全復活したのは6月9日でした。

それで、6月10日からは、明治2年からの、バンコクへ旅立ったからゆきさんの慰霊に入っています。からゆきさんとは、日本の農村などから、新天地を求めて単身で旅だった若い女性たちを指します。女性たちは、少なくない割合で、娼館などで働くこともありました。

バンコクに令和6年2月29日から3月4日までいて、3月5日に帰国したのですが、(いまおもえばほんとうに不思議な旅でした。ほんとうに強硬スケジュールでよく行ったなあと思うところです。お寺の行事が毎月28日。それを終えて翌日から、比較的法務の少ない月はじめを活用して、でかけました。辻政信

辻政信さんたちの慰霊準備と一緒に、からゆきさんたちは帰ってきたのだったけれど、特攻隊の少年兵たちの数があまりに多くて、さらに戦争関連の慰霊をしていたら、不審な亡くなり方をした現代の政治家の方の御霊も集まってきて、塔婆は7本にもなったけれど、からゆきさんたちの分は建てることができませんでした。

ご神体の御瀧はむかしから成仏の瀧とうたわれているけれど、瀧への道にはずらりと少年兵たちがその数1000人ひしめきあって並んだのです。

からゆきさんたちの並ぶ場所さえなかったことでしょう。

次の慰霊テーマ~がらりと変わる~

慰霊祭直後には、昭和30年代の布施新地の遊女さんの慰霊も行うようになりました。こちらは信者さんから側からのプッシュでした。

6月に入って、ひとつ出張講座がありましたが、そこから帰ってきてから、定例の御瀧水行(6日午後)とお護摩(8日)を行いました。そうして、9日夕方、がらりと変わる局面に入ったのです。

戦没者慰霊は今年度は一段落して、次の方々に入らねばなりません。

さいしょ、なにかにつけて行ってきている、和歌山県橋本市の昭和初期の遊女の方々の慰霊をふたたび行おうかとも思ったのですが、その連想より、バンコクのからゆきさん! まだだった! と思い至ったのでした。

慰霊初日、内護摩にて行いましたら、髪にオレンジ色の南国のお花をつけて、池の水面を見つめている女性があらわれました。わたしがチャオプラヤ河で慰霊のため拝んでいたさいに、いたずらしに来たからゆきさんかな。

河で拝むことにして正解だったんだと思いました。

内護摩の火は高く燃え上がりました。彼女たちは、夢をもって海を渡ったことでしょう。そして楽しいこともあったでしょう。ただし、日本に帰りたいと思いながら、母に父に会いたいと思いながら、異国の地で果てた方もたくさんいたことでしょう。

そして、まずは一家のなかで、女の子である娘が(口減らしのためもあったのか)偵察隊のようになって海を渡り、現地ではたらき、資金がたまって、商売ができそうなら、その一家や集落ごと移住になるということがあったといいます。

家族がやってこなければ、一人異国で残りの人生を暮らしたのでしょう。現地で結婚などして新しい家族ができたとしても、望郷の念の抑えきれぬこともきっとあったに違いありません。

それよりも先に、病気で短命のうちに一生を終わることもよくあったでしょう。

たくさんの思いを残していることがわかります。

そんな形で、6月10日からバンコクのからゆきさんの慰霊をだいたい6月いっぱいを使って行っていきます。

梅雨へ

季節は梅雨です。

高野山は、一年中、どちらかというと雨が多いお山なのですが、梅雨もまた、しっとりと濡れた感じにでしょう。

佛教では、雨は慈雨です。人を癒し慰めるには、雨がよいのでしょう。

冬の冷たい雨なら、すこし寂しい気持ちがあるけれど、夏に向かう梅雨の雨は、

あたたかい印象です。

わたしがときどき訪れるタイ国には雨季があって、降り続く雨の時期には、自然が

イキイキと育つのでしょう。

わたしたちの心もしかりです。